鎌倉幕府の創始者 源氏と北条氏の足跡を訪ねるコース
平氏一族を討伐し、本格的な武家政権を開いた源頼朝であるが、紀伊国にも源氏や北条氏と縁のある文化財が残されている。熊野速玉大社の神倉神社では、御神体であるゴトビキ岩まで麓から538段の急峻な石敷き階段が造られているが、寄進したのは源頼朝との伝承があり、鎌倉造りと呼ばれている。
高野山の金剛三昧院(こんごうさんまいいん)は鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室であった北条政子が頼朝の菩提を弔うために建暦元年(1211年)に創建した。落慶供養は高名な栄西禅師が勤めている。北条氏や足利氏の武将も菩提寺とし、後醍醐天皇をはじめ多くの皇族や武将が参拝している。多宝塔は貞応2年(1223年)に頼朝と実朝の供養のために建立され、内部には重要文化財の五智如来座像が安置されている。滋賀県大津市石山寺の多宝塔に次いで日本で2番目に古いもので国宝に指定されている。
高野山町石道は金剛峯寺への参詣に最もよく使われた主要道で、一町(約109m)ごとに金剛峯寺の中心である壇上伽藍(だんじょうがらん)からの距離を刻んだ町石(石製道標)が建てられている。距離は、山麓の慈尊院から壇上伽藍までが約20km、壇上伽藍から奥の院の弘法大師御廟までが約4km、合計約24kmである。一里(約4km)ごとに同様の里石も5基建てられている。町石は花崗岩の四角柱の先端に五輪塔形を彫出した形で、全高約3.5m、重量は約750kgである。兵庫県産の御影石であり、この地までの移動の労力は大変なものである。この石材の基礎部を地中へ埋め込み、地上部分の高さは2m前後である。側面には、壇上伽藍からの距離(町数)のほか、密教諸尊の梵字の名前、建立の年月日及び目的などが彫り込まれている。もともとは木製であったといわれ、鎌倉時代に高野山の僧・覚斅(かくきょう)が石造による再興を願い、皇室や鎌倉幕府の要人、庶民の寄進を募り、文永2年(1265年)から弘安8年(1285年)にかけて20年の歳月をかけて建立された。町石と里石の合計221基のうち、鎌倉時代のものが約8割残り、一町ごとに礼拝を重ねながら山上を目指した参詣の様子を現在に伝えている。一部の町石の基礎部には護国教典の『金光明最勝王経』を川原石に墨書した経石が埋められていることが発掘調査で明らかにされている。この時期、日本は、当時中国大陸を支配していた元から二度の襲来(元寇)を受け(文永の役1274年・弘安の役1281年)、存亡の危機にさらされていた。町石の基礎部に護国教典を書写した経石を埋納して国の守護を祈願した可能性がある。町石の寄進者に北条時宗などの幕府関係者が多いこともこれを裏付けている。町石建立にはそのような秘められた歴史的背景がある。