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和歌山の祭り・年中行事

小竹八幡神社秋季例祭

小竹八幡神社

 

御坊市(寺内町)

地元では、「御坊祭り」と呼ばれる。 古くは「奴祭」 「薗祭」 「放生会祭」とも言った。
宿老、古老は「宿禰祭(すくねまつり)」とも言った。

商売繁盛、家内安全を願い、各組の地区内、小竹八幡神社の境内、鳥居前の宮前芝、煙樹ヶ浜のお旅所までの沿道などで行われる。

元々は、旧暦の8月14・15日に行っていたが、明治5年の新暦から10月1・2日となる。その後、国勢調査と重なるため、昭和2年から10月4・5日となった。

【御坊町(ごぼうちょう)の場合の流れ】
●「10月3日」
他の組では10月4日の宵宮の日を「傘揃え」というが、御坊町の場合は3日を「傘揃え」といい、総代宅前に傘鉾を立てて、祭りの始まりを示す。(他の組では、4日の朝8時頃に小竹八幡神社の玉垣に傘鉾を立て揃え、祭りの始まりを示す。)
●「10月4日」  
御坊町の場合、宵宮には小竹八幡神社に宮入りしない。
他の組の場合、正午より宮入りが始まる。 
幟、四つ太鼓、屋台の順に八幡筋を道中し、幟を宮前芝で立て、その組が宮入りする事を示し、四つ太鼓が鳥居前でサイテクリョウをした後、本殿前で再びサイテクリョウをする。同時に屋台が宮前芝を廻って本殿に下ろし、奴踊り、獅子舞など各組の奉納をする。
御坊組は、正午から四つ太鼓、屋台が地下廻りをして、夕刻に日高別院で、けほん踊り、奴踊り、獅子舞を行う。
宵宮の夜は四つ太鼓の合同行進が本町商店街を深夜まで行われる。最近は別の18メートル道路に移り、その賑わいは、大変なものだ。
●「10月5日」  
本祭りの日で、朝から神前式を行い、御神体を乗せた神輿の渡御が行われる。御幣、太鼓、榊を先頭に、諸道具を持った氏子総代、傘鉾、二人の鬼に先導された神輿が続く。二人の鬼の内、赤ら顔で鼻の高い天狗の様な面の方は猿田彦命であり、道開きの神様である。 その神輿の後、宮司、巫女、その次に幟、屋台が続き、宮を出て枠橋(西川大橋)を渡り、浜之瀬の煙樹が浜で潮掛けをした後、御旅所で神事をする。その後、旧御坊町内を廻り、神社に戻り、本殿で神事が行われる。
神賑行事の最初は、御坊町のけほん踊り、下組の雀踊り、浜之瀬組・上組の奴踊りと続き、各組の宮入りが始まる。
この日は四つ太鼓は境内に入らず、諸芸を奉納する間、宮前芝で押し続ける。獅子舞を終えた後、幟、屋台が境内を出て、四つ太鼓と共に、地下に帰る。
最終の上組が獅子舞を終えると、神輿が拝殿より出され、屋台と共に境内を練り、再び拝殿前に戻り、還御(お戻り)となり、明かりを消し、暗闇の中で御神体(神霊)を神殿に戻し、終了する。
●「10月6日」  
宵宮の(傘揃え)に対して傘破ち(かさやぶち)は祭りの終わりを意味する。早朝より各組毎に諸道具の片付けを行い、獅子が地下内を一軒ずつ廻り、各家で祝儀を戴いて廻る。これを別名「こじき廻り」と呼ばれている。
夜に打上げの慰労の酒宴が開かれ、行事がすべて終了する。

【祭りの起源】
祭りの起源は定かではないが、寛永十九年(1642)に御坊町古寺内の六左衛門に神が乗移り、「すぐに祭りをせよ」とのお告げがあったという話があり、約三百年余りの歴史がある。 
現在の宮入りの形態が定着したのは昭和30年代からであり、それ以前の形式は毎年少しずつ変わっているが、大きくは変化していないとの事である。

【各組の特徴】
「中組」 
組印は(盃)で、奴踊りと獅子舞を奉納、地下内に小竹八幡神社が有り、宮入りは常に1番最初に行う古くは新町組といわれていた。  
「浜之瀬組」
組印は(お多福)で、奴踊りと獅子舞を奉納、美浜町からの参加。 
「下組」 
組印は(雀)(左ななめ下向き)で、雀踊りと獅子舞を奉納、古くは土手組といわれていた。
「紀小竹組」 
組印は(瓢箪)で、獅子舞を奉納、雄獅子である。
「御坊組」 
組印は(鳥居)であるが、天幕・傘鉾等には、蛇が記されている。獅子舞と奴踊りとけほん踊りを奉納、雄獅子でである。
「名屋組」  
組印は(五本骨の扇)で、獅子舞を奉納。
「東薗組」 
組印は(舞鶴)で、獅子舞を奉納。 
「上組」
組印は(額)で、奴踊りと獅子舞を奉納、小竹八幡神社の元宮が地下内に有り、神輿の警護的役割を持つ。

【行事食】
行事食として以前は、なれ寿司(鯖と塩とご飯だけを、あせの葉で巻いて、寿司桶にぎっしり詰めて重石をする。発酵して、ご飯粒が無くなるぐらいの物)が好まれた。今は、酢を使った寿司飯に塩で〆た鯖を使う「早すし」が主流である。

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