現在表示しているページ
ホーム > 和歌山の祭り・年中行事 > 芳養大神社の秋祭

和歌山の祭り・年中行事

芳養大神社の秋祭

田辺市(芳養)

地元では、「祭り」 「秋祭り」と呼ばれる。
豊漁と豊作、地区・家内安全、商売繁盛、収穫への感謝の思いをこめて例祭日(御渡り)は10月の第二日曜日(昨年は10月9日)に行われる。
松原青年団の場合は、大神社(お宮さん)、浦安神社(えべっさん、こえべっさん)、当家(トウヤ)、若衆宿(ワカイシュヤド、獅子舞宿とも呼ばれる)などで行われる。
実施。

松原青年団の場合は、例祭日の前々日朝6時頃から地下舞わしが始まり花代を頂いて一軒ずつ獅子舞を舞わす。
宵宮の日も朝から地下舞わしが夕方まで行われ午後7時頃から街道(熊野古道)を二つの獅子が行進し8時頃大神社へ参宮し獅子舞を奉納した後、神主さんの屋敷前、浦安神社(宵宮の舞)、当家、若衆宿の順で獅子舞を舞わす。
例祭日は朝より地下舞わしから始まり、屋台の飾りや天狗の持ち物など装飾品すべて本番用に新しい物に取替え獅子舞奉納に備える。午前中神社では、井原青年団による獅子舞が奉納され、午後より松原青年団の「式」と呼ばれる獅子舞奉納(幣の舞、団獅子、寝獅子、天狗の舞、乱獅子、剣の舞、五尺、団獅子)が拝殿前で行われ途中一旦休憩し、3時頃より渡御行列が行われる。
渡御行列は塩桶、大榊、太鼓、社旗、神輿、唐櫃、神職、御道具、金幣・長刀、松原鶴亀幟、井原鶴亀幟、各当家の御幣、幟があり、松原、井原、田中の当家はそれら意外に「になえ茄子び」(一節から二つの茄子がなったもので夫婦を表し、また繁殖力の強さから子孫繁栄の願いが込められている)、「便乗(美女)万歳」(ビンジョバンザイとは当家またはその親戚の男女幼児一組を当主らで肩車して地につけず神に捧げるというもの)などが並び社総代旗、社総代一同、区役員一同がその後に続く、神社を出発し先に出て神社近くで待っている子供神輿と合流し浦安神社近くに設けられた御旅所で清払いを行い神社に戻って渡御を終える。
宮入後は神事が始まり里神楽が舞われ、各当家の当主が長い御幣を使って豊漁、豊作、を占う「還御祭」が行われる。平行して渡御後、幟の奉納が行われ、各字の青年団の幟の奉納がすべて済んだ後、松原青年団、井原青年団によって、お渡りの獅子舞(宵宮の舞)が奉納され午後7時頃まで行われる。
その後、松原青年団は、神主さんの屋敷前、浦安神社、昨年の若衆宿、当家でお礼参りの獅子舞を舞い、若衆宿で獅子舞が奉納された後、最後の行事、「笠破ち」が行われる。俄の音曲に合わせてユーモラスに踊りながら獅子舞、屋台を分解していき最後に屋台の長持ち部分に数名の若衆が一人ずつ乗り込んでは担がれて回されるを繰り返し万歳三唱で終了となる。
例祭日の翌日夕刻から「皿曳き」と呼ばれる慰労会が若衆宿で行われ、宴会が行われる。合間に伊勢節、俄、皿曳き、十日戎などの余興、行事があり、最後に「鶴さん亀さん」と称して青年団への新人の入団儀式が行われる。現在は、伊勢節と「鶴さん亀さん」以外は休止中である。宴会が終わるとお手伝いの女性を道中の音曲で家まで送って終了となる。


例祭は、大神社が芳養王子、若一王子と呼ばれる時代からあったといわれ、東山天皇が伊勢参宮された際に大神社に立ち寄り獅子舞をご覧になったとも言い伝えられている。資料宝物等は宝永・安政の津波、火事等でそのほとんどが消失しているが渡御行列に使われている金幣には、享保五子ノ年の銘があり、安政三歳銘の入った獅子頭を入れる箱も残っている。松原青年団が行う獅子舞に関しては、江戸時代に古座から習ってきたもので文献はないが宝永元年に始まったと伝えられている。松原の獅子舞は明治時代か幕末頃、田辺市稲成の谷地区にも伝えられている。

明治末期までは、例祭日に獅子舞は渡御行列に含まれていたが喧嘩が絶えず、また時間が長引き渡御の進行が妨げられるため渡御行列から外れた。結果、今日まで渡御が始まる前に獅子舞を舞わし、直後に渡御行列が始まると言うスタイルになった。本来は、旧の9月9日に渡御が行われていたが、明治4年の太陽暦採用以降に10月9日になり、平成15年より渡御の日(例祭日)は10月の第二日曜日になった。「皿曳き」は平成8年より途絶え、その後平成14、15、16年と復活し、17年からまた休止している。しかし青年の間にも復活を希望する声が強く今はその準備中である。

供物に、になえ茄子び(ニナエナスビ)がある。一節から二つの茄子がなったもので夫婦を表し、また繁殖力の強さから子孫繁栄の願いが込められている。


このページのトップに戻る