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和歌山の祭り・年中行事

荒神社の餅まき

荒神社の餅まき

 

有田川町(杉野原)

地元では、 「荒神さん」と呼ぶのがほとんどであるが、「荒神さん」「荒神さんの餅まき」「天子山三宝大臣」「杉野原三宝大荒神」ともいう。

家内安全・五穀豊穣・商売繁盛・交通安全などの各々が希望するものを祈願する。

有田川杉野原地区の天子山にある荒神社境内で行われる 春祭りである。
昔は祭典の日を4月15日に決めていたが、祭日ごとに降雨が連続し、一同協議の結果、昭和12年より旧暦3月3日に変更する。しかし、近年の過疎化の関係で旧暦3月3日に近い土曜日に行うようになってきている。

大餅まき(午後開始)
1.大きな餅(一斗鏡餅・五升鏡餅・三升鏡餅など)を社殿に奉納
2.14時頃から「宝引(ほおびき)」…20本に2本の確率で当たる。1本100円でできるため、1人が何本も引くことができ、当たった人には当たり餅が渡される。当たった人は、縁起をかつぐと言って喜ぶ人多い。
3.神主によるお祓い(有田川町安諦地区にある三大神社の神主が来社)
4.15時頃から大餅まき…この大餅まきは、奉納された大餅(1つ10kg以上もある丸いお餅)や小さな餅もまかれるため、迫力のある餅まきである。大餅をまくとき2人で、上から並行方向にまくようにする。三升以下の小さい餅などは怪我しないように、大餅まきの場所以外の場所を設けて巻く。
*まかれたお餅を自宅に帰って、雑煮にして食べる人もいる。

昭和4年に奈良県の立里(たてり)三宝大荒神の御分身を奉迎し、天子山に鎮座した。天子山に祀られたのは、昔 天子山の南側に荒神社の祀跡があったとの伝説があったため、最適地として決められた。

<荒神社の歴史>
昭和4年  天子山に鎮座 河津大明神の社殿を移籍
昭和48年 現在の神殿を建立
昭和56年 水道施設
昭和61年 社務所新築(境内で餅つきが始まる)
昭和62年 旧社務所・便所改修
昭和63年~平成元年 参道舗装
平成10年 多目的家屋新築

昭和60年までは、各家庭廻り持ちで餅搗宿(まかない宿)を行っていた為、準備などの餅搗宿になった家は作業をしてる人々の昼食・晩御飯など色々なものをまかなっていた。また、ついた餅は会式に天子山に持ち上げるのも手作業であったため大変であったが、今は境内の敷地内にある建物で作るようになった。
また、昔はついた餅を直接重ねるとくっついてしまうし、しかし家の中に1日半ほどおいておかなければならなかったので、家の雨戸の上に竹で作った台を置き、その上にできた1升餅などをおき、その上にまた雨戸を置いて台をおいて餅をのせ…というように餅を重ねて乾燥させていった。今は、雨戸ではなくコンパネを使用している。
昭和61年からは舗装はされていないが道ができたので、境内で餅つきをするようになった。盛んなころは五石以上の寄進があったが、現在は二石半になっている。参加者も少なくなり、一斗餅も昔は10枚以上あったが、近年は5枚程度であるし、大きな餅を奪い合う若者も少なくなり、昔に比べてほとんどトラブルがなくなった。
また、餅つきも昔はうすを各家庭にあるうすを最低2つ用意し、すべて臼でついていたが今は機械でつくようになった。そして、大餅なども寄付してくれる人は昔は多かったが、今は昔の半分くらいの量しか大餅がなくなった。
当たり餅も、現在は持ち帰りやすいようにナイロンのビニールにお餅を入れているが、昔は餅の両側に榊の葉っぱを両側にあてて、はでの木を剥いて両側に挟んで留めて、吊るす様にして持ち帰ってもらった。
旧3月3日に決まってからか、旧3月3日のため荒神さんでもひし餅も作ったりしていた。

決まりごとはないが、怪我予防のため、大餅まきで大餅を取った者は上に掲げたらその人のものだと決めているが、ほとんどそうならないことが多い。
近親者に不幸があった場合、49日の法事が過ぎるまで神殿に立ち入らない(特に決まり事ではないが、そうしている人がほとんどであり、人によっては1年過ぎるまで立ち入らない人もいる)。
取った大餅をみんなで分けて食べると良いと言われているので、できるだけ分けるようにしている。

餅つきの当日は、昼食に「魚(鯖)飯」を作る。現在は20人前ほど作っている。
餅ぜんざいも食する。

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