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和歌山の祭り・年中行事

つつてん踊り

海南市(黒江)

「 つつてん踊り」と呼ばれる。

産業と文化が融合して生まれたこの伝統芸能を、後世に継承するため行われている。(昔は、町衆の楽しみや、供養のために踊っていた)。

黒江の町には、ノコギリ歯状の狭い路地がたくさんある。盆時期は、あちらこちらの路地で、町衆の肝いりで踊った。夏の夕暮れ時ともなれば「つつてん踊り」の三味線の響きで風情ある町となった。また、宴席では、季節を問わず、三味線・太鼓・鉦の伴奏で踊られた。現在は、毎年8月14日の下駄市、11月第1土曜・日曜日の紀州漆器まつりなどで公演している。また、地域の神社での奉納披露や、市・県の民俗芸能祭でも公演している。


昭和30年くらいまでは、町の人々はお盆の時期、下駄市で買った下駄を履き、哀調を帯びた踊り唄と三味線の伴奏に合わせて「つつてん踊り」を踊った。地道をこする下駄の音を路地に響かせながら、老若男女が、夜更けまで踊り続けた。狭い路地で踊るため、囃子方を中心に円陣を作って回りながら踊るということはできない。ゆえに、四角に並んで進んだり戻ったりしながら踊る独特な形式になった。「つつてん」というのは、三味線が弾く「ツーツーテン」「ツーツーテン」という曲の旋律に由来している。
以降、この慣習は途絶えたが、近年、つつてん踊りを継承するため「つつてん踊り保存会」が、イベントなどで公演している。


黒江は、紀州藩の保護を受け、江戸時代中期には漆器生産の町として繁栄していた。製品は、黒江浦から大坂~江戸、瀬戸内海~九州に至るまで、また日本海の町へ(北前船)、陸路では紀州街道・高野伊勢街道を通じて大阪・奈良・伊勢・京都などに販路を広げていた。同時に、漆器商人や職人(木地師や塗師)が諸国から集まり、各地の文化や芸能も黒江の町に取り入れられた。この頃に祭の娯楽として唄と踊りが起こり、漆器に携わる人々を初め、黒江の町の人々に支えられ盛んになったと思われる。つつてん踊りの歌詞を見ると、近江八景や伊勢参詣、上方浄瑠璃、上方歌舞伎などに題材をとったものがあり、近江の木地師や上方商人などの影響が見られる。
つつてん踊りの歌詞は、江戸期の寛永2年(1625年)から延宝9年(1681年)にかけて流行した遊宴歌より派生して唄い始められたもので、天和2年(1682年)から元禄17年(1704年)には歌祭文(うたざいもん)から出た長い物語風の「口説き調」になり、三味線の伴奏で義太夫節を加味した情感あふれる語りが特徴である。その中でも特に人形浄瑠璃の上方文化の影響を強く受け、歌詞ごとに曲節が異なるという全国的にも独特の極めて数少ない盆踊り唄となっている。


昔は、狭い路地や座敷で踊っていたので「畳半畳の踊り」と言われ、あまり動くことはなかった。平成18年頃からは、舞台などの広いスペースで公演するため、輪に広がったり、場所を移動しながら踊ったりと、動き方を工夫している。

音曲は、音頭と三味線、尺八、太鼓、鉦、拍子木。衣装は、改まった舞台では黒紋付、祭などでは浴衣や法被を着用。小道具は、扇子、団扇、桜の小枝、幟幡など。
昔は、手ぬぐいをかぶり、片方を口にくわえ、片方をヒラヒラさせることもあった。

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