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和歌山県の民話

喜六太夫(きろくだゆう)

出典:しもつのむかしのはなし

発行:下津町教育委員会

後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の文明(ぶんめい)八年二月中頃のことであった。
ちょうど、今から五百年ほど前のことである。
冷水浦(しみずうら)に喜六太夫という者が住んでいた。五十歳になっても子どもがなく子どもを欲しい欲しいと願っていた。
そこで、喜六太夫は、ここはひとつ観音様(かんのんさま)にお願いしてみようと思って、岩屋山(いわやさん)の観音様にお参りをした。
そして、三七日(さんしちにち)の間、毎日毎日、お参りして、
「どうぞ私に子どもをお授け下さい。」
と一生けんめいにお祈りした。
ある夜、喜六太夫の夢枕に、観音様がお立ちになって、柳の枝を一本授けて下さった。
やがて、その妻が子どもを身ごもり、十ケ月後には、かわいい女の子が生まれた。生まれた子が、ことのほか愛らしく、そして心ばえも賢く、同じ年頃の子どもに比べて、ずんとすぐれていた。
また小さい時から、仏さまを信心する心も深かった。
父や母の喜びも、この上もなく、娘よ娘よと片時も目を離さないほど、いつくしみ育てた。
十一歳になった春の頃。ふとしたことから病になった。
父も母もあっちの神さま、こっちの仏さまと、ずいぶん遠くまで出かけていっては、娘の病を治してくれるようにと、手を尽した。
そんな父母の手厚い介抱のかいもなく、二月十八日に、はかない露と消えた。父母の悲しみは限りがなく、泣く泣く野辺の送りだけはした。
それからというもの、二人とも悲しみにうちしおれて、食物ものどを通らず、これから先、どのように生きていったらよいかわからないほど、嘆き悲しむ毎日だった。
喜六太夫は、その苦しみから、のがれることができたら、どんなに気が楽だろうと思って、岩屋山の観音様に、
「なんとか、立派なお坊さんのお教えをいただいて、この苦しみから、救って下さい。」
と、一心にお祈りをした。
一七日(ひとなぬか)の逮夜(たいや)の時、娘が大へん気に入っていた振袖とつややかな黒髪をお寺に納めて、ひたすらお祈りをした。
そのうち、うつらうつらと眠くなり、夢を見ていた。
夢の中に娘がありありと現われ、喜六太夫の方へかわいい手をさしのべた。彼はいとしさのあまり、娘にとりすがると、娘はにっこりほほえみ、たちまち観音様のお姿となって消えてしまった。
夢から覚めた喜六太夫は不思議な思いにひたっていた。
思えば、十一年間も親となり娘となって、暮らせたのも、観音様のありがたい御心(みこころ)によるものと、大へん感じ入って、涙にむせんでいた。
喜六太夫は、娘への迷いから離れるために、その日から、百日間おこもりをして一生懸命にお祈りをした。
ようやく百日目が終ったその夜明けに、観音様が現われ、喜六太夫に、向かって、
「これから先、この世の悩みや苦しみから離れて、仏の道を求めようとするのは、まことに見上げたものである。
明日の朝、仏の道を教えてくれる立派な坊さんが、この藤白峠(ふじしろとうげ)を通るから、その坊さんに、これから生きる道について尋ねればよい。」
とおおせられた。
喜六太夫は、喜びにむせび、あくる朝、早くから峠で待っていると、黒い衣に身をつつみ、わらじばきの立派なお坊さんが通りかかるのに出会った。その方こそ、蓮如上人(れんにょしょうにん)さまで、熊野(くまの)へお詣りする途中であった。
喜六太夫は、上人さまに夢の中で観音様がお告(つげ)になったことをお話した。上人さまは、深く心にとめられて、仏の道を信仰することの大切さをことこまかく、ていねいにお諭しになられた。
そのありがたいお話を聞くにつけ、喜六太夫は今まで、思い悩んでいたことが、まるで、うそであったかのように、すっかりなくなるように思った。そこで喜六太夫は、
「上人さま、どうぞ私を弟子にして下さい。」
とお願いをして、弟子にしてもらった。こうして、上人さまと喜六太夫が出合った所を「後世(ごせ)の芝(しば)」と呼んでいる。
すっかり肩の荷がおりた思いの喜六太夫は、上人さまにもう一つお願いをした。
「上人さま、いま私が住んでいる冷水浦(しみずうら)の人々は、今まで、このようなありがたいお話を聞いたことがないので、私のような悩みや、それ以上の苦しみを背負って生きている人々がたくさんいます。
ついては、えらいむさ苦しい所ですが、ぜひお寄りいただいて、愚かな人々をお導きいただければ、どんなに喜ぶことでしょうか。どうぞお出でいただけないでしょうか。」
とお頼みした。
上人さまは、その話に深くうなずき、こう申された。
「私は熊野へお詣りする途中である。二十日位過ぎたら、また必ずここを通るので、その時にお前の家を訪ねよう。」
それからというもの、喜六太夫は、上人さまにお会いできる日を思いこがれながら、待っていた。
二十日近くなると、もうどうすることもできず、毎日毎日、峠に登っては待っていた。
とうとうその日がやってきた。
すぐさま、上人さまを冷水(しみず)の里へおつれした。
下る道みち、山の中ごろに平な所があり、そこからの見晴らしは、まことにすばらしいものであった。
南の海は天と地がつきる所まで見渡すことができ、松の緑に島の影、ただよう小舟、思わず足を止どめて眺められた。上人さまは、ことのほか気に入られ、御気嫌よく、手を叩き、小謡(こうた)までお謡いになられた。今、ここを鼓(つづみ)ケ畑(ばた)といって、お謡を刻んだ宝塔(ほうとう)が残されている。
冷水浦にお着きになった上人さまは、村人達に仏さまの道をわかりやすくお話しされた。
村人の多くは、上人さまのお導きにすっかり心をうたれ、そのお教えに従うことになった。
この世では、身分の貴い人も賤しい人も、また富める者も貧しき者も、それぞれみな、多かれ少なかれ苦しみや悩みを背負って生きていた。
そんな苦しみや悩みを救って下さることは、まことにありがたいことであった。
上人さまは、これもみな観音様のお導きによるものとおおせられて、喜六太夫をはじめ村人四、五人を伴なって、観音様にお詣りすることになった。
今お登りになられた山道は御僧ケ谷(ごそがだに)と呼ばれている。
上人さまは、六字名号(ろくじみょうごう)(南無阿弥陀仏)(なむあみだぶつ)をお記しになられて、観音様の御宝前(ごほうぜん)にうやうやしく捧げられた。
それから数百年たった今でも、お詣りする人々は、観音様のありがたい御心(みこころ)や、上人さまのお導きに報いるため、仏さまの御名(みな)を唱え、あがめ、お祀りをしている。
その後、喜六太夫は、わが家を道場とし、また親鸞(しんらん)上人さまと蓮如上人さまの二尊像(そんぞう)をいただき、御本尊(ごほんぞん)としてお祀りした。
喜六太夫は名を了賢(りょうけん)と改め、また道場を了賢寺(りょうけんじ)として、ますます上人さまのお教えを守り、広め、人々のために尽くしたといわれている。

※後世の芝…御所(ごしょ)の芝あたりといわれている。

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