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和歌山県の民話

巨人(きょじん)の足跡(あしあと)

出典:打田町の民話と伝説

発行:打田町教育委員会

何万年か大昔であります。中国から朝鮮を通って九州へ、何千メートルか分からない高さの巨人が歩いて来ました。
九州から四国へ来て、淡路(あわじ)へ来ましたが、四国と淡路の間は細い陸でありました。巨人の足が大きすぎてこの陸地をふみつぶして海にしました。急に海になったので、海の水はびっくりして、北へ流れたり、南へ流れたりしました。今でも鳴門海峡(なるとかいきょう)はこの流れを続けています。淡路と紀州の間も陸であったが、巨人の足跡で海となり、陸の残りが友ケ島(ともがしま)となったのです。
巨人は紀の川を歩いて上って来ましたが、水が冷たいので、南の山の頂上を歩き始めました。一番初めに打田町の最初峯(さいしょがみね)の上に足を下しました。高い最初峯は忽(たちま)ちくずれて、その足跡は高野の盆地であり、今ある最初峯は昔の山のかけらです。
巨人はかつらぎ町の天野(あまの)、次ぎに高野山、次ぎに吉野山、次ぎに大台原山(おおだいがはらやま)へと進みました。こうして出来た巨人の足跡は山の頂上に平らな高原を造りました。
それから何万年かたって人間が住むようになり、この山の頂上の高原に霊気(れいき)があると感じた役(えん)の行者(ぎょうじゃ)は吉野や大台に修験場(しゅげんば)の道場を開き、お大師さんは高野や天野にお寺を建てました。打田の人は高野を開拓(かいたく)し、お寺を作りましたが、中世美福門院(ちゅうせいびふくもんいん)の厚い信仰を得ることになりました。
最初峯へ足を入れたとき、巨人の力が強すぎて、あたりの山が一面にくずれて沢山(たくさん)の谷が出来たので、今でもこのあたりを五百谷(いおだに)といっています。
大台ケ原から巨人は東へ飛んで、富士山に衝突しました。当時活火山であった富士山は二つにわれ、巨人はこの火山で大やけどをして、あわてて太平洋に飛び込みました。しかしその火はまだ消えないで海の中で、巨人が燃えているそうです。それが大きくなったのが伊豆の大島だというが、さてどうでしょう。三原山(みはらやま)の底に巨人が燃えているのでしょうか。

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