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和歌山県の民話

中将姫

出典:橋本市史民俗・文化財編

発行:橋本市

今から千二百八十年ほど前の奈良時代、長谷(はせ)観音の授け子として、右大臣(うだいじん)藤原豊成公(ふじわらのとよなりこう)の娘が奈良の都で生まれた。姫は、両親によって大事に育てられていた。しかし五歳のとき、母の紫の前が亡くなり、毎日寂しい日を送っていた。翌年には照夜(てるよ)の前という新しい母を迎え、豊寿丸(ほうじゅまる)という弟が生まれた。姫は生まれつき賢く、和歌などをたしなんだので、九歳のとき天皇から中将(ちゅうじょう)の位(くらい)を授かった。父は大変喜んだが、照夜の前からつらく当たられるようになった。姫が十四歳のとき、豊成公(とよなりこう)が留守の間に、照夜の前は姫を殺そうと企んだ。殺すように命を受けた嘉藤太(かとうた)は、父を迎えに行こうと嘘をついて姫を誘い出し、奈良の都を出た。しばらくして大和と紀伊の国境近くにある雲雀山(ひばりやま)まできたが、どうしても殺すことができず、姫を雲雀山に残して都に帰った。そして「姫を殺してきました」と照夜の前に報告した。
雲雀山に取り残された姫は、母の供養のために念仏を唱える日々を過ごしていたが、あるとき近くの山に登り、大きな松の木の傍で手を振った。すると姫の指先から五色の糸が出て松の枝に掛かり、美しい布が織り出されていた。やがて布は空の彼方に飛んでいった。いっぽう都では、帰ってきた豊成公に照夜の前は「お父様を迎えに行くといって出たままもどってこないのです」と嘘をついていた。
あるとき豊成公は狩に出かけ、雲雀山の近くまで来て道に迷ってしまった。野山をさ迷っていると、谷間に小さな明かりを見つけた。その火を頼りに近づいて行くと、家の中から念仏の声がする。声をかけると人が出てきたが、その顔を見て驚いた。なんと我が子の中将姫ではないか。豊成公は中将姫を連れて帰り、都で仲良く暮らした。その後中将姫は当麻寺(たいまでら)で出家して、当麻曼荼羅(たいままんだら)を織り上げ、二九歳で極楽浄土へ行ったという。

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