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和歌山県の民話

平維盛(たいらのこれもり)の熊野落(くまのおち)

出典:太地町史

発行:太地町

平家一族は、壇ノ浦の海戦で全滅し、下関の赤間(あかま)神社の境内(けいだい)に平家七盛(ななもり)の墓として祀(まつ)られている。もちろん、維盛(これもり)の墓もその中にあるが、実は、壇ノ浦の海戦前、屋島(やしま)へ軍勢が逃がれたとき平家方では、すでに戦い利あらずと察し、もし、この戦に利あらずして平家一族が全滅するようなことになれば、平家の再興を計る者が跡を断つことになるので、屋島から維盛はひそかに与三兵衛重景(よそうひょうえしげかげ)と石童丸(いしどうまる)を連れて、海路、渡辺の津(いまの天満橋辺り)へ向かったが、源氏の警戒が厳しく、予定を変更して加太(かだ)に渡り、更に、高野(こうや)に重盛(しげもり)の衛士(えじ)であった滝口入道(たきぐちにゅうどう)を訪ね、剃髪(ていはつ)してのち京都に落ち、まず、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)へ詣で御神託(ごしんたく)を乞(こ)うたところ、「御身(おんみ)の安全な隠匿(いんとく)場所は、これより巽(たつみ)の方にあり。すぐ落ちるべし」とのお告げがあった。これより巽の方といえば熊野に当たるので山伝いに那智(なち)に出たといわれている。それより勝浦(かつうら)沖の山成島(やまなりじま)で、しばらく隠棲(いんせい)していたが、草の根を分けても平家の落人(おちうど)は探すという源氏の厳しい捜索の網が全国的にはられたため、やむなく、山成島の沖で従者とともに入水(じゅすい)したように見せかけ、山成島から太地(たいじ)へ渡る途中、岩礁(がんしょう)の近くにきたとき暴風が起り、舟がまさに覆(くつがえ)らんとしたため、維盛は手に持つ太刀(たち)を海中に納めて、海神(わだつみ)の怒りをしづめたとも、また、維盛が山成島から泳いで太地へ渡る途中、この岩礁あたりで太刀を落としたともいわれ、それより、このあたりを太刀落としの名で呼ばれるようになったと伝えられている。

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