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紀の国の先人たち

篤志家・政治家 浜口 梧陵 (はまぐち ごりょう )

1820年(文政3年)~1885年(明治18年)
広川町 生まれ
村人の命を救った「稲むらの火」

文政3年(1820)、広村(現:広川町)に生まれる。天保2年(1831)、浜口家の本家にあたる千葉県銚子のヤマサ醤油店浜口儀兵衛の養子となり、醸造と販売の実務を行う。また、家業に専念するかたわら、三宅良斎、佐久間象山などの先覚者に学び、国の将来には人材の育成が必要と、崇義団をつくり稽古場を開設して青少年の教育に力を注ぐ。この私塾は後に「耐久社」と呼ばれ、変遷して現在の耐久中学校となっている。

寛永6年(1853)、家督を相続して儀兵衛を襲名。梧陵は号であるが、後年は通称となっている。安政元年(1854)、広村に激震とともに大津波が発生。梧陵は、避難の道しるべとして自家の稲むらに火を放ち、多くの村人を救う。この話は、現在に語り伝えられている「稲むらの火」である。また、私財を投じて家を建てるなど被災者救護に全力をあげるとともに、村の将来を考え、堅固な防波堤を築造する。英国の文豪ラフカディオ・ハーンは、梧陵を「A LIVING GOD」(生ける神)として広く内外に紹介、多くの人びとに深い感銘を与えた。

明治元年(1868)、藩政改革に勘定奉行として抜てきされ、その後も和歌山藩政にたずさわる。明治12年(1879)、県会設置とともに初代議長に就任、その後国会開設に備え木国同友会を組織する。
梧陵は、新しい知識と見聞を広めるためアメリカに渡ったが、明治18年(1885)、ニューヨークにて64歳で亡くなった。
和歌山県庁内には、梧陵の功績を称え銅像が建立されている。

(画像転載禁止)


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