大正3年(1914)~昭和38年(1963)
新宮市出身
日本における電波天文学の開拓者
大正3年(1914)、現在の田辺市に生まれる。幼少にして畑中家を継ぎ、新宮中学校(現在の新宮高校)入学の頃、科学に目覚めて天文学を志す。第一高等学校を経て、昭和12年(1937)東京帝国大学理学部天文学科を卒業、昭和13年(1938)には東京帝国大学助手兼東京天文台技手となって、主に理論天体物理学の研究を始めた。戦後、恩師であり日本を代表する天文学者萩原雄祐教授の勧めで、新しい分野であった電波天文学の研究に着手し、太陽から出ている電波の観測を始めた。
昭和24年(1949)太陽電波の観測に成功、昭和28年(1953)39歳の若さで東京大学教授に就任、その翌年に偏波計により太陽偏波を測定した。
昭和32年(1957)に東京大学付属東京天文台天体電波部長に就任、若くして日本の天文学界をリードする存在となり、国際的に活躍した。
時として研究者は、「話の内容が難しい」と近寄りがたい存在に思われがちであるが、天文学の啓蒙に力を入れていた武夫は、当時の研究者としては珍しくさまざまな雑誌で記事を執筆したりテレビ出演や座談会に出席している。また、著作「宇宙と星」(1956)「宇宙空間への道」(1964)は、わかりやすい言葉で書かれている。
太陽面の爆発によって起こる偏波の完全な観測に世界で初めて成功した畑中武夫は、昭和38年(1963)、49歳で亡くなった。
母校である新宮高校には、彼が好きだった言葉「われら地球人」と記された記念碑が建立されている。また、世界的な業績を記念して、月のクレーターの一つに「ハタナカ」の名が付けられている。