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紀の国の先人たち

移民功労者 本多 和一郎(ほんだ わいちろう)

1852年(嘉永5年)~1895年(明治28年)
紀の川市(旧:打田町) 生まれ
新進の精神を育んだ「共修学舎」を開設

嘉永5年(1852)、池田村(現:紀の川市)に生まれる。学問を好み、19歳で上京。医師の書生として住み込み、家事を手伝いながら慶応義塾で欧米の新思想を福沢諭吉、新島襄などから学ぶ。
明治13年(1880)、帰郷、根来寺に郷土青年の育英のための私塾「共修学舎」開く。さらに、青年たちに世界情勢を論じて新進の精神を鼓舞すべく渡米相談所として「米国遊学事務所」を設け、アメリカ渡航を奨励する。

塾生には、渡米推進者で貿易商の堂本誉之進と園芸家の憲太郎兄弟、米国で洗礼を受け沖野岩三郎らを育てた神学博士の滝本幸吉郎、ハワイで法律事務所を開設し日本人労働者の労働条件改善に貢献した根来源之などがおり、移民して活躍した人物を輩出している。

また、和一郎は、大石與平の勧めで聖書を学習し、自分ひとりの宝としておくべきではないと考え、伝道を開始する。米国から来たキリスト教伝道師J.B.へ一ル師から和歌山市の洋々館で洗礼を受ける。謙虚で品格の高いヘール師と和一郎との結びつきは、共修学舎に学ぶ青年たちに大きな影響を与えた。
体の弱かった和一郎は、明治28年(1895)、43才で亡くなった。
和一郎が石橋(いしばし)久吉(きゅうきち)あてに出した書簡にはこう記されている。「小生ハ身体薄弱ナレドモ志の薄弱ナルコトハ最モ好マザル所ナリ」。
紀の川市北大井の集会所(旧:阿弥陀寺)には、和一郎の頌徳碑が建立されている。

(画像転載禁止)


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