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紀の国の先人たち

篤農家 堀内 仙右衛門(ほりうち せんえもん)

弘化元年(1844)~ 昭和8年(1933)
紀の川市生まれ
ネーブル王と呼ばれた篤農家

弘化元年(1844)、那賀郡段村(現:紀の川市)に生まれる。幼い頃から漢学の素養を積み、17歳で家督を継ぐ。村全体が豊かになるよう思索を巡らし、村の背後に広がる百合山丘陵地の開拓を発案する。有田地方や京都宇治へ出かけ、技術を学び苗木を仕入れ、茶や温州みかんの栽培を始めた。みかん栽培は順調に成果をあげ、一体には広大な果樹園が出現した。明治10年(1877)、友人の堂本英之進とともに紀北地方の同業者約150名を集めて「南陽社」を結成。品種改良の研究や出荷販売、輸送手段の契約などを共同で行い、紀北産みかんの品質を高め価格を維持し、市場の拡大を図った。明治13年(1880)には東京市場への大量出荷を果たし、売れ行きは好調で好評を博したという。明治18年(1885)、さらなる市場拡大のため海外輸出に着目した仙右衛門は、新たに「改進社」を結成し、アメリカへのみかん輸出を果たした。

改進社駐在員としてアメリカに赴いていた千田三次郎から、アメリカで人気があるワシントンネーブルの情報を得た仙右衛門は、明治22年(1889)、アメリカから苗木を入手。みかんの老樹への接ぎ木など改良を重ね、明治29年(1896)、ようやく9顆の実をつけるに至った。これが日本で最初のネーブルオレンジである。

仙右衛門はその後もネーブルの育苗に没頭、病害虫駆除の取組や、肥料の改良、貯蔵倉庫の工夫などにより見事な成果をあげ、ネーブルの増産を成功させた。ネーブルの栽培法を学ぶために全国から人が集まったが、仙右衛門は快くその技術を伝授したという。

明治35年(1902)、カリフォルニアの果物市場に仙右衛門の作ったネーブルが登場、地元産をしのぐ甘さと香りで人気を集めた。改進社はネーブル30万本を擁して、中国やロシアなどにも出荷を行い、明治末には生産高の2割以上が輸出されるようになった。また、果実だけでなく、苗木の出荷事業も大いに繁盛し、仙右衛門の育てたネーブルの苗木が全国へと伝わっていった。現在も同地域で盛んな苗木生産の源流をここに見ることができる。

わずか一本の苗木から、国産初のネーブルを育て普及させた「ネーブル王」堀内仙右衛門は、昭和8年(1933)、90歳で亡くなった。

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