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紀の国の先人たち

水泳選手 兵藤 秀子(ひょうどう ひでこ)

1914年(大正3年)~1995年(平成7年)
橋本市 生まれ
日本人女性初めてのオリンピック金メダリスト

小学校4年生の時、紀ノ川の水泳練習に参加し、神戸商船学校の水泳選手から近代泳法を習う。水の流れがある場所で泳ぐため、泳法を身につけるのは並大抵ではなかったが、平泳ぎの指導を受けて力をつけていく。

大正15年、大阪府浜寺プールで開かれた学童水泳大会で50メートル平泳ぎ決勝に出場して、46秒0という学童女子日本新記録をうち立てる。昭和3年、大阪で開かれた水泳大会の100メートル平泳ぎ、昭和4年、ハワイで開催される汎太平洋女子オリンピック大会出場選手選考会等で続々と優勝し、日本新記録を樹立。昭和5年、校長の勧めもあり、椙山高等女学校の3年生に編入し、練習に励む毎日を送る。

昭和6年、母と父が相次いで亡くなる。精神的な打撃は深刻で、スポーツどころか退学しなければならない状況であったが、椙山校長の支援もあり再び水泳をはじめる。

昭和7年、第10回ロサンゼルスオリンピックでは、僅か0.1秒差で惜しくも2位となる。当時、女子はスポーツだけではなく社会で活躍できる雰囲気ではなく、それだけに男子以上に優勝というプレッシャーが重くのしかかる。その重圧をはねのけ、昭和11年の第11回ベルリンオリンピックでは、3分3秒6で優勝、金メダルを獲得する。

この大会を最後に現役を引退し、翌年結婚。その後母校で後輩の指導にあたる一方、日本最初の「ママさん水泳教室」や「中高年齢水泳教室」を開くなど、水泳の普及に尽力。69歳の時、脳溢血で倒れ再起不可能とまで言われたが、持ち前の精神力で体を動かし、右半身にマヒが残る体でありながら、各地で水泳指導に当たるなど、水泳の魅力を説き続け、水泳の申し子ともいえる生涯を送る。昭和56年、アメリカの水泳殿堂入りを果たし、五輪功労賞を受賞。平成2年、女子スポーツ界初の文化功労者に選ばれる。

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