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紀の国の先人たち

医学者 飯塚 淳一郎(いいづか じゅんいちろう)

明治20年(1887)~昭和42年(1967)
みなべ町 生まれ
歯科教育に尽力した苦学力行の医学者

明治20年(1887)、晩稲村(現:みなべ町)に生まれる。小さいころから何事にも興味を持ち、とことん調べてみないと気のすまない性格であったという。

明治39年(1906)英語を習いたいと渡米、昼間は店で働き夜は日本人のための教会で婦人たちのボランティアにより英語を習う。

アメリカに来て4年、英語もかなり話せるようになった頃、クーパーという歯科医と知りあう。クーパーは「どうだ歯科医にならんか、一度私の医院を見に来なさい」と誘い、それがきっかけとなり歯科大学に入ろうと決心した。

大正3年(1914)、南カルフォルニア大学に入学、大学卒業後の大正7年(1918)コロラド州の歯科医師試験に合格し、同年10月にはデンバー市に歯科医院を開業した。

大正9年(1920)14年ぶりに帰国、菩提寺である光明寺の和尚の世話で飯塚貞と結婚、名前を坂本傳右衛門から飯塚淳一郎に改めた。

大正10年(1921)、アメリカ帰りの実力が認められ、大阪歯科医学専門学校の教授となり、昭和16年(1941)には同校の校長となる。その後、歯科教育審議委員会委員や大阪歯科大学の大学長・理事長を務め、一教授としての指導者から学校の運営・管理の最高責任者、さらに歯学会の発展に絶大な指導力を発揮した。

歯科教育に尽力した苦学力行の飯塚淳一郎は、昭和42年(1967)79歳で亡くなった。

平成元年(1989)、淳一郎の功績を称え生家近くに句碑が建立された。

(画像転載禁止)


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