1851年(嘉永4年)~1916年(大正5年)
紀美野町(旧:美里町)生まれ
郷土の未来を拓いた貝尻用水
嘉永4年(1851)、下神野村箕六(現:紀美野町)に生まれる。当時、耕地は少なく、そのうえ山間地のため水不足は甚だしく、水の安定確保は村民の悲願であった。兼蔵は、神野の地で農業を営み、勤倹力行して資産家となったが、「人のためになる仕事をしたい」と、農業用水の工事に乗り出す決心をした。そして、用水路を中心とした村の耕地整理をも計画立案したのであった。
用水路完成には天拝峠の水路トンネル貫通が必須であることを説き、応分の分担を農家の人々に提案したが理解は得られなかった。そこで兼蔵は自分の檜山を当時壱千円余りで手放し、独力でも掘削する決意をした。そして、坑口となる土地を買い取り、県知事に陳情してトンネル測量の技術者を派遣してもらい、工事にとりかかった。この時兼蔵61歳、明治45年(1912)のことであった。
天拝峠の水路トンネルは専門の工夫を雇い、東西両側から掘り進んだが、一日数センチしか進まない日もあり、工事は難航を極めた。工事開始後3年目にして、ついに50メートルのトンネルが貫通し、この坑口より神野市場までの全長4キロメートルの灌漑用水路も完成した。こうして、貴志川の水がトンネルを通って神野市場の田に注がれることとなった。耕地整理を含めた全工事の完成は大正3年(1914)、兼蔵63歳のときであった。
兼蔵の一念は、天拝峠の岩をも貫通させたのである。この用水路は貝尻用水と言われ、いまもその名を残して地域の人々に語り継がれている。兼蔵は、工事完成後まもない大正5年(1916)65歳で他界している。その10年後、神野橋のたもとに記念碑が建立され、「人々のためになりたい」という思いで郷土の未来を拓いた偉業をいまに伝えている。
(注意) 尻という字は「九」ではなく「丸」です。