明治20年(1887)~昭和53年(1978)
田辺市 生まれ
和歌山県人初の内閣総理大臣
明治20年(1887)、現在の田辺市に生まれる。後に「私の身体の中には2つの血潮が流れている。1つは母から受けたキリスト教の思想、信仰、教育であり、他の1つは父から受けた孔孟の教え、老荘学派の考え方である」と述懐しているように、父母の薫陶を受け、博愛、清節の教えを強く受けて育つ。
田辺中学校(現:田辺高校)を経て、明治45年(1912)に東京帝国大学(現:東京大学)を卒業。弁護士となり、東大YMCAの一室を借り簡易法律相談所を設け、農民や労働者、女性など弱い立場におかれる人のための事件を扱った。後に中央法律相談所を開設するが、法律的、社会的な不公平をただすためには政界での活動が必要との思いを強める。
大正15年(1926)安部磯雄、吉野作造らの指導のもと社会民衆党が結成され、書記長に就任。昭和5年(1930)、43歳の時に神奈川2区から立候補して当選する。
太平洋戦争が終った昭和20年(1945)、日本社会党が結成されるとともに書記長に、翌昭和21年(1946)には中央執行委員長に就任。昭和22年(1947)の第23回総選挙では、日本社会党が143議席を得て第1党に躍進、首相指名選挙ではほぼ満場一致で内閣総理大臣に就任した。
民主党、国民協同党との連立で組閣された片山内閣は、戦後の難局処理に当たり、新憲法下で、警察制度の民主化を図った警察法の制定、婚姻の自由や男女平等を規定した改正民法の公布などを実現したが、保守政党との連立政権であるため意見調整がたびたび難航、また社会党内の左派が造反するなど政権運営の行き詰まりが原因で、昭和23年(1948)2月に総辞職するに至った。
東西の古典に通じ「文人宰相」と称され、平和主義のクリスチャンとして知られた片山哲は、その後も憲法擁護、国民主権の立場に立った政界浄化を訴えて長く議員活動を続け、昭和53年(1978)、90歳で亡くなった。