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紀の国の先人たち

教養人・画人 川合 小梅(かわい こうめ)

1804年(文化元年)~1889年(明治22年)
和歌山市 生まれ
幕末・明治の社会変革を日記に綴った女性

父は紀州藩校「学習館」の助教を勤める学者であったが、小梅が5歳の時に、この世を去る。そのため、祖父から漢学を、国学者本居大平の弟子で歌人であった母から和歌を学び、野呂介石の門人野際白雪に絵画を学んで育つ。

文政2年、祖父が紀州藩士梅本五兵衛の子の修を婿養子として迎えたことから、修と夫婦となる。夫の修は10歳年上の26歳であり、川合家を継いで儒学者となって梅所と号し、後に、学習館の校長となる。結婚した16歳の年から70年間、小梅は日記を書き続ける。

天保4年、30歳で息子(岩一郎)を出産。主婦業の合間に、教養人として、絵を描き、歌を詠んで生活を楽しむ。

日記には、家族のこと、彗星をみたことなど、生活者の視点で毎日の出来事を書き記す。また、酒を好み、酒にまつわる失態も書き残している。5歳の岩一郎に酒を呑ませて引き付けを起こさせてしまい、12日間も看病をしたことや、夫の同僚とともに紀ノ川へ花見に出かけ、酒を呑みすぎて家に帰り、夫に介抱されたりしたことなどである。

日記からは、夫婦仲が良かったこともうかがえる。明治4年(1871)初夏、最愛の夫は、小梅が生けた蓮の花にみとられながら亡くなるが、小梅は70歳を越えても健在で、手習いを教えたり、絵を描いたりしながら家事をこなし、新しい西洋の学問にも興味を持つようになる。

江戸時代から明治時代にわたり、日記に社会の動きと自分史を書き綴り、明治 22年に亡くなる。墓は和歌山市吹上の妙宣寺にある。16歳~86歳までの 70年間に及ぶ小梅の日記は、私たちが当時の生活様式を知るための貴重な資料となっている。

(画像転載禁止)


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