文政3年(1820)~明治40年(1907)
和歌山市生まれ
北畠講法学舎をつくった文武両道の学僧豪傑
文政3年(1820)、現在の和歌山市和歌浦の浄土真宗本願寺派法福寺に生まれる。幼名を宮内、循教といい、道龍と号した。
11歳のころから、仏典、徂徠学、易学、禅学などを学び、武芸も、剣は柔剛流、槍は大島流、柔術は関口流を学びそれぞれ免許を与えられた。
20歳の時、寺務を弟に譲り巡遊の旅に出て、本山や他宗派の学問を修めるとともに、諸国の志士と交流した。
明治9年(1876)56歳の時、友人の協力をえて、東京の有楽町にのちに明治大学を創立した矢代操とともに北畠講法学舎を設立し校主となった。そして、当時の司法卿山田顕義に、「本学舎卒業生には無試験で代弁人の免状を与える」ことの許可を得、この特典により、北畠講法学舎は学舎内に訟務局を設け、訴訟代言業務を開業した。
明治18年(1885)、『今日新聞』が「現今日本十傑」を募集し各界のナンバー1を選んだ際には、政治家では伊藤博文、著述家では福沢諭吉、そして教法家では北畠道龍が1位となった。
明治22年(1889)、精神学・歴史学等を専門とする北畠大学を設立しようと妻と共に東奔西走して資金を集め、各方面の理解を得るが、会計係の不正により、大きな負債を負い、計画は崩れた。
日本体育共和軍隊(法福寺隊、義烈隊、遊撃隊とも称される)をつくり、また、紀州藩政改革や徴兵制創始への参与、さらに北畠騒動とよばれる本願寺改変の活動でも知られる学僧豪傑であった北畠道龍は、明治40年(1907)87歳で亡くなった。