嘉永2年(1849)~明治42年(1909)
紀の川市 生まれ
自由民権運動の牽引者
嘉永2年(1849)、那賀郡中山村(現:紀の川市)に生まれる。
明治6年(1873)慶應義塾に入学、自由主義的な考え方に強い影響を受け、権威や伝統にとらわれない合理主義的な判断力を強く持つようになった。卒業後大蔵省(現:財務省)に入省するが、しばらくして退職、郷土の近代化に寄与すべく帰郷を決意した。
明治政府は近代国家として国家財政を確立し、土地制度および土地課税の変革をするため、明治6年(1873)に「地租改正条例」を制定したが、地価の算定などに問題があり農民の負担が大きかった。明治9年(1876)、仲児は画一的で不合理な算定に異議を唱え、建白書を県に提出。趣旨に賛同した粉河村の戸長や有力者たちも同様の願書を提出し、ついには粉河騒動といわれる数千人の請願行動に拡大、県が軍隊の出動を要請するに至った。
仲児はこの一連の反対運動を契機に、近代的な人権の確立を目指して人々の生活と意識を変えていこうとする自由民権運動を展開していく。仲児らの呼びかけで「実学社」が結成され、国会設立の請願を行うとともに、新時代を担う人材育成のため、猛山学舎(後に猛山学校)を開校。歴史、法律、作文、算数やイギリスなどの自由思想の講義を行った。
明治12年(1879)第1回和歌山県議会議員選挙に当選、以来約30年間政治家として活躍する。県議会では議長や副議長を歴任し、その間に那賀郡長を勤めた。やがて明治23年(1890)、国会が開設されると初代衆議院議員に当選した。
早くから男女平等を主張し、同和教育にも熱心に取り組み、貧困、失業対策のための社会事業を興すなど多岐にわたり活躍した。また、鉄道の導入にも積極的な働きかけを行い、奈良から橋本、和歌山に至る紀和鉄道の敷設にも尽力した。
明治維新後の和歌山に近代的で自由な社会を築こうと尽力した児玉仲児は、明治42年(1909)59歳で亡くなった。