明治12年(1879)~昭和43年(1968)
和歌山市出身
生化学の先駆者、和歌山県立医科大学初代学長
明治12年(1879)、岡山県本庄村(現:瀬戸内市)に生まれる。明治35年(1902)大阪医学校を卒業した後、明治42年(1909)にドイツ・ケーニヒスベルク大学に留学し生化学を研究する。昭和7年(1932)キヌレニンの発見を中心としたトリプトファン代謝に関する研究業績により、ドイツ自然科学学士院会員となり、翌年には日本学士院賞を受賞した。のちに化学部門でノーベル賞を受賞したドイツのアドルフ・ブーテナントは、「古武彌四郎が発見したキヌレニンの研究論文を読まなかったら、私はノーベル賞を受けるほどの研究ができたかどうかわからない」と語っている。
昭和20年(1945)和歌山県立医学専門学校の創設に関わり、初代学長に迎えられる。しかし同年7月9日、和歌山空襲により開校したばかりの同校は全焼する被害を受けた。物資が乏しく厳しい制約と満足な医療機具も手に入らない中、持ち前のファイトと情熱で若い医師たちとともに負傷者の救済と病院再建に精魂を傾けた。
和歌山県立医学専門学校は、昭和23年(1948)に和歌山県立医科大学に昇格したが、彌四郎は昭和35年(1960)82歳で退職するまで学長を務めた。
生化学の先駆者であり、和歌山県立医科大学の基礎を築き初代学長を務めた古武彌四郎は、昭和43年(1968)89歳で亡くなった。
愛弟子で和歌山県立医科大学の学長も務めた市原硬博士は、「勉強に関しては先生ほどこわい人はなかった。日本語の専門書を読んでいたら『ドイツ語で読みこなせ!』とどなられた。華岡青洲とともに紀州が世界に誇れる医学の先覚者だった」と追想している。