1890年(明治23年)~1979年(昭和54年)
海南市 生まれ
フローレンス・ナイチンゲール記章を受章した看護師
明治23年(1890)、海草郡北野上村(現:海南市)に生まれる。兄と母が結核で死去、その後、父が脳溢血で他界するといった悲しみの中、ナイチンゲールを夢見て「赤十字の看護婦になる」と決心、明治44年(1911)、日本赤十字社和歌山病院看護婦養成所に入学、大正3年(1914)、卒業と同時に日本赤十字社和歌山支部病院の看護婦として勤務する。ヤスエは朝と夜の二回、担当の入院患者をすべて廻り励まし、また「これは栄養があるから」と差し入れを行うなど行き届いた心遣いと献身的な看護で患者たちの信頼を得る。
大正5年(1916)助産婦資格を取得し、大正8年(1919)看護副長、大正10年(1921)婦長心得、大正11年(1922)には看護婦長に昇任する。
同病院が陸軍病院となって間もない昭和14年(1939)看護婦監督に就任し、戦時体制下、看護部門の責任者として看護管理と救護看護婦の養成に尽力する。特に、昭和20年(1945)7月9日の和歌山大空襲に際しては、同院が全焼する被害を受けながらも、1200人近い患者・職員を無事避難させた。
戦中・戦後を通じての献身的な看護活動が評価され、昭和26年(1951)、国際赤十字委員会から和歌山県民として初めてフローレンス・ナイチンゲール記章を受章し、看護婦として最高の栄誉に輝く。
昭和41年(1966)、同院を退職後も2年余りにわたり無給嘱託として後進の指導にあたる。
博愛と奉仕の赤十字精神で慈愛に満ちた看護を行ったヤスエは、昭和54年(1979)89歳で亡くなった。
フローレンス・ナイチンゲール記章は、1853年に勃発した英露間の国際紛争であるクリミア戦争にナイチンゲールが看護団を組織して従軍し、敵味方の別なく負傷者を看護した博愛精神を称え1920年に制定された記章である。