1897年(明治30年)~1974年(昭和49年)
和歌山市 生まれ
戦後日本のスポーツ振興に尽力した体育指導員
大正13年、東京高等師範学校卒業後、熊本の第五高等学校助教授となる。昭和6年からは、熊本県体育主事として体育教員の指導にあたる。この指導実績が評価され、昭和9年、東京高等師範学校に転任、文部省衛生官を兼務する。
しかし、満州事変を機に、体育教育は国家の要請のもと国民精神総動員のためのものへと転化。さらに大戦中は、体育は戦技訓練と結びつけられ、軍事教練、行軍など戦場におけるそのままの姿が学校教育となる。終戦後は、アメリカの教育視察団らが来日し、体育の授業時間はそれまでの半分以下の週3時間程度になる。しかし、栗本はスポーツを通して平和で民主的な国家づくりに貢献することを願い、小学校から大学までの新カリキュラム作成をはじめ、社会体育の重要性を説き、国民体育大会、日本体育協会、オリンピック参加などの活動を推進する。
昭和25年、文部省を退任し、日本体育大学の学長に就任。学長として同大学を体育大学の名門校に育て上げる。また、文部省の保健体育など各種審議委員、日本体育協会理事をはじめ約20もの団体の役員を務め、我が国のスポーツ・レクリェーションの発展に尽力する。 昭和39年に、故郷の和歌山県の国民体育大会誘致計画を知った栗本は、自ら国民体育大会委員長を引き受け、各方面に協力を要請。昭和46年の黒潮国体開催のために奔走する。「スポーツマンシップを国民の中に」を合言葉に活動し続けた栗本は、故郷での国体開催の3年後、昭和49年、77歳で生涯を閉じる。