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紀の国の先人たち

人権運動家 栗須 七郎(くりす しちろう)

明治15年(1882)~昭和25年(1950)
田辺市生まれ
あらゆる差別と闘い続けた「水平の行者」

明治15年(1882)、東牟婁郡本宮村(現:田辺市)に生まれる。独学で学問を修め、明治31年(1898)小学校の代用教員に採用される。しかし、被差別部落出身を理由に冷遇されたため1年で退職し上京、昼間は通信書記補として働き夜間、国民英学会に学ぶ。明治35年(1902)徴兵され大阪の歩兵第37連隊に入営、看護兵として日露戦争に出征。自ら重傷を負いながらも兵士を助けた軍功により司令官感状と金鵄勲章を受賞する。明治40年(1907)医学修行を志し東京の日本医学校(現:日本医科大学)に入学するが、盲貫弾による心身の不調で休学を余儀なくされ、剣術修行、親鸞全集、岡田式静坐などに救いを求める。

大正4年(1915)本宮村役場で起きた差別事件の解決のため帰郷。一身を犠牲にして事にあたることを決意し、村長の辞職を求めて演説会を開くなど、差別糺弾のための世論を形成。ついに村長が退陣し、村政は刷新されることとなった。その後各地を行脚してこの糺弾闘争の成果を語り大きな影響を与え、自身が差別撤廃の運動に関わる大きな契機となった。

大正10年(1921)有田郡内の被差別部落において解放運動の自主的組織、直行会の結成を指導。大正11年(1922)の水平社創立に共鳴した栗須は、大阪に居を移し大阪府水平社の設立に尽力する。また、演説の名手として全国各地で差別の撤廃を訴え、水平運動の全国的指導者の一人として活躍した。

大阪では自宅を「水平道舎」と称し、被差別下にあった在日朝鮮人少年たちを書生に迎え、彼らに学ぶことの大切さを説き、教育の機会を与えた。栗須は、「水平の世は即ち自由平等の社会である」と、人は尊敬すべきものだという人間性に目覚めることの大切さを自らの著書で語っている。

太平洋戦争末期には日置川町(現:白浜町)に疎開、戦後は自宅を「学習の家」と称し、地域の教育活動にあたった。

「水平の行者」と呼ばれ、部落差別をはじめあらゆる差別をなくすために闘い続けた栗須七郎は、昭和25年(1950)、67歳で亡くなった。その功績を讃える顕彰碑が、熊野地方全域に計6基建立されている。著書に『水平の行者』、『水平審判の日』、『水平道』。

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