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紀の国の先人たち

浪曲師 京山 小円嬢(きょうやま こえんじょう)

1903年(明治36年)~1973年(昭和48年)
和歌山市 生まれ
女流浪曲三羽ガラスの一人、浪曲界の華

海草郡和歌浦町(現:和歌山市)生まれ。本名、和田房野。大正3年、12歳の時、父がひいきにしていた初代京山小円の弟子円吉に師事し浪曲界入り。初舞台は福井市の加賀屋座、出しものは父から口移しで教わった二代目吉田奈良丸の義士伝であった。小円が亡くなり、房野は小円の養女となって、わずか15歳で京山小円嬢を名乗る。

大正11年、小円嬢20歳の頃、浪曲好きが高じて父は、大阪市大正区に稲荷館という席亭(演芸場)を経営し、マネージャーとして小円嬢を支援する。小円嬢は、すぐに美貌の女流浪曲師として頭角を現し、関西では富士月子、春野百合子と三羽ガラスとして数えられるようになる。21歳で、曲師小馬松太郎と結婚、息のあった2人の舞台は評判を呼ぶ。  

東京明治座公演の際には、小円嬢をひいきにしていた時の総理大臣岡田啓介ら政界の大物がかけつけ、浪曲界の華小円嬢を称え書画などを記念品として贈っている。

昭和12年、日中戦争がはじまり、軍事態勢が国家総動員法へと厳しくなり、芸能界も戦争協力を余儀なくされる。小円嬢一座も戦争の勝利を信じて、浪速座などの大阪公演や地方巡業はもちろん、ラジオ・レコード、それに軍の病院慰問へと忙しく、愛国浪曲・軍事浪曲を演じるようになる。

昭和20年、敗戦後、父の死と席亭稲荷館の戦災で小円嬢はすっかり落胆していたが、焼け野原に苦しむ人々を見て、浪曲で元気づけようと心機一転し一座を再編。大阪を拠点に四国、中国地方、名古屋等を巡業し、多くの人々の気持ちを高揚させた。

昭和26年49歳で引退し、大阪市住之江区で余生を送る。

(画像転載禁止)


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