1892年(明治25年)~1961年(昭和36年)
みなべ町 生まれ
戦後移民の再開に貢献したブラジル移民の父
明治25年(1892)、日高郡岩代村(現:みなべ町)に生まれる。大正7年(1918)ブラジルヘ渡り、コーヒー栽培と牧畜に従事、その後、サンパウロ州マリリアで3200ヘクタールの大農場を経営するに至る。
第二次世界大戦後の日本は、空襲でほとんどの工場は破壊され、そのうえ、海外からの引き揚げ者等で人口は急増し、食糧難、就職難、インフレ等未曾有の経済危機を迎えていた。このような時、安太郎は親交のあったブラジルの時の大統領ゼツリオ・ヴァルガスの協力により、昭和27年(1952)、中部ブラジル4か所(マトグロッソ州、ミナス・ジェライス州、バイーア州、マラニョン州)に8年計画で4千戸、2万人の日本人移民入植計画(いわゆる「松原計画」)をブラジル国移植民審議会に申請し承認を得る。同年、来日し日本人移住の打合せを行い、また、天皇陛下に拝謁(はいえつ)を賜る。
安太郎がこの計画を立ち上げたのは、移民の辛さを実感を持って知っていたからである。移民した人々は、日本を遠く離れ、言語や文化風習の違う土地にいて苦難が多く、勤勉で真面目に取り組んでいこうとする者が、失敗することなく順調に事業をやっていけるようにと願い、この計画を立ち上げたのである。この計画で、和歌山県は全国に先がけていち早く対応した。しかし、この計画は、大統領の急死、移民者の脱耕等で思うようには運ばなかったものの、当時の日本に尽くした功績は大きく、「移民の父」と称された。
昭和29年(1954)帰国、郷里で余生を送っていた安太郎は、昭和36年(1961)、69歳で亡くなった。