天保10年(1839)~大正8年(1919)
紀の川市生まれ
日本の近代医学・医療制度の拡充に貢献した医学者
天保10年(1839)、神田村(現:紀の川市)に生まれる。
京都でオランダ医学を学んだのち21歳で故郷に帰り、しばらくしてから湯浅村(現:湯浅町)で開業した。名声を慕って、患者が多くつめかけたという。
その後、欧米の医学習得を志し横浜に向かい、福沢諭吉の門下生となり、英国医学の研究に専念する決意をした。29歳の時、諭吉がアメリカから持ち帰ったフリント著『内科全書』(熱病編)をわずか2ヶ月で翻訳し『窒扶斯新論』として出版した。これが、我が国最初の英語医学書の翻訳出版である。
明治6年(1873)、福沢諭吉とともに慶應義塾医学所を開所し初代校長に就任する。
明治13年(1880)には、高木兼寛とともに人間味のある暖かい医療を目指して、英国系医学を基調とした医学施設を創っていくことを決意する。彼らのつくった研究団体(成医会)、医学校(成医会講習所)、病院(有志共立東京病院)、看護学校(同病院看護婦養成所)は、学術団体・成医会として、東京慈恵会医科大学、同附属病院として、さらに同大学看護学科、看護専門学校として現在まで発展しつづけている。
棟庵は、名誉や権威といったものを嫌い、権力におもねることなく、自立した市民が集まって共同して事業を為し遂げていくこと(共立)を理想としたが、これは彼の尊敬する福沢諭吉の「独立自尊」の理念の実現でもあったといえよう。
明治34年(1901)、恩師福沢諭吉の最期を看取った後も近代医学・医療制度の拡充に努めた松山棟庵は、大正8年(1919)80歳で亡くなった。