慶応3年(1867)~昭和16年(1941)
和歌山市生まれ
世界の学者を振り向かせた博物学の巨星
和歌山市橋丁に生まれる。幼少より抜群の記憶力に恵まれ、知的好奇心に満ちあふれていた。「和漢三才図会」百五巻を3年間かけて筆写したり、当時の知の宝庫ともいえる書籍を少年時代に書き写している。
雄小学校(現:雄湊小)、和歌山中学校(現:桐蔭高)を卒業後、上京。共立学校に学び、明治17年(1884)に東京大学予備門に入学するが、2年で退学し、帰和。 明治19年(1886)に父の援助で米国へ留学、さらに明治25年(1892)に英国に渡った。ロンドンでは、大英博物館に知遇を得て、研究に専心科学雑誌「ネイチャー」に度々寄稿し、好評を博した。ここで亡命中の孫文や後に高野山管長となる土宣法竜と出会い、親交を結ぶ。明治33年(1900)英国から帰国。明治34年(1901)那智勝浦町に移住し、主として那智の滝周辺の原生林で生物調査や採集を行う。3年後田辺に転居し、明治39年(1906)結婚してその地で終生をすごした。
熊楠は熊野や高野をはじめ県内各地の山中や田辺の自庭、 「神島」等で多くの標本を採集し、新種を発見したり、多数の民俗学等の論文を執筆した。
また「人間は自然の中に生かされている」という理念で自然(生態系)の破壊は人間(生命と生活、人間性)の破壊であると神社合祀反対運動や自然保護(エコロジー)に情熱を燃やす。
「金平糖のような人」と比喩され、研究ジャンルの広さ、18ヶ国語を話せたという語学力、書いて憶えるという抜群の能力は、ロンドン抜書、田辺抜書や書簡、また、標本、図譜等を多く残している。
昭和4年(1929)6月、昭和天皇を田辺湾「神島」にお迎えし、「長門」艦上で御進講を行った。
独学の雄で自由な独創性は21世紀の指針を示唆している。