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紀の国の先人たち

 三宅 米吉(みやけ よねきち)

万延元年(1860)~昭和4年(1929)
和歌山市生まれ
考古学の発展に尽くした歴史学者

万延元年(1860)、現在の和歌山市に生まれる。明治5年(1872)慶應義塾に学んだ後、教職に携わりながら、教育・言語・歴史・民俗と幅広い学問を深めていく。

明治15年(1882)夏、中上川彦治郎らとともに、発音式仮名遣いを主張して「いろはくわい」(いろは会)を組織。 話し言葉と書き言葉が別だった当時、近代的教育の進展のためにも必要とされた言文一致の先駆的運動であった。この考えは、二葉亭四迷らの小説や、新聞の社説などで使われ始め、その後の文章表記方法に一石を投じる結果となった。

明治18年(1885)、米吉は仲間たちとともに「方言取調仲間」を設立し、その趣意書に「我が日本の国語」という表現を用いた。今日馴染みの深い「国語」という言葉は、この時に初めて作られたものと言われている。全国共通の標準語として「国語」を制定し、それとともに、地方独自の言葉である方言を残そうとしたのであった。

明治19年(1886)には、教科書編纂研究のため米国・英国に遊学、帰国後、教育学術雑誌『文』を発行した。明治28年(1895)東京高等師範学校の教授に就任、帝国博物館学芸委員となり、下村三四吉らとともに我が国最初の考古学会を創設、古墳文化や歴史時代の遺跡・遺物の研究を進めた。

明治25年(1892)に、志賀島で発見されていた金印の文字「漢委奴国王」を「漢の倭の奴の国王」と読む論文を『史学雑誌』に発表。江戸時代に発見されたこの金印には、様々な解読説や、偽物説まで諸説様々であったが、新説の読み方を論証した。この学説は通説となり、現在の教科書にもこの読み方が取り上げられている。考古学をはじめ、人文科学の多様な分野にわたる論文を数多く残し、歴史教育、国語教育における開拓的役割を果たした。

大正9年(1920)に東京高等師範学校長となり、同11年には帝室博物館総長を兼務。昭和4年(1929)には、創設されたばかりの東京文理科大学(現:筑波大学)の初代学長に就任したが、同年11月、69歳で亡くなった。

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