文久2年(1862)~大正13年(1924)
かつらぎ町生まれ
新和歌浦の観光開発を先導
文久2年(1862)、伊都郡丁ノ町村(現:かつらぎ町)に生まれる。明治12年(1879)、慶應義塾に進み福沢諭吉に学ぶ。帰郷後、私財を投じて伊都自助私学校を設立。英学、数学、漢学、修身、習字の5科目を教授し、人材の育成に努めた。生家は全国でも有数の大酒造家であったが、紀陽新聞の創刊に加わり、また伊都銀行頭取を勤めるなど、数々の事業に携わり重要な役職を勤め、地域の発展に尽くした。
明治40年(1907)、病気静養のために海草郡和歌浦町(現:和歌山市)に別荘を建てて移り住む。小高い山から眺める海の景色は大変美しく、風光明媚なこの土地を多くの人が訪れるように開発したいと考え、静養の傍ら、開発構想を練る日が続いた。明治42年(1909)、和歌浦から雑賀崎にかけての山林45ヘクタールを買い取り、明治44年(1911)には、和歌浦から田野に通じる道路を整備、海岸まで山が迫る場所には二つのトンネルを次々に貫通させ、同地域の利便性を向上させるとともに、土地の造成や水道の整備を手がけた。観光地としての新和歌浦の始まりである。
明治44年(1911)には、多額納税者として貴族院議員に選出される。国政に参与しながらも新和歌浦開発にかける情熱は衰えることなく、大正6年(1917)、新和歌浦土地株式会社を設立し社長に就任。旅館兼料亭「仙集館」を中心に様々な観光施設を建設、多くの遊覧客で一帯はにぎわったが、第一次世界大戦後の不況や、多額の建築工事費負担の事情により開発事業を中止。大正13年(1924)、さらなる新和歌浦開発の完成を見ることなく、62歳で亡くなった。しかし、庄兵衛が手がけた開発が礎となり、その後も開発が進められ、昭和14年(1939)には雑賀崎周遊道路が完成、昭和25年(1950)には新和歌浦沿岸一帯が瀬戸内海国立公園に編入されるなど、国内でも有数の観光地として多くの人が訪れるところとなった。
昭和30年(1955)には、庄兵衛が建設したトンネルのそばに、新和歌浦開発の恩人として遺徳を称える顕彰碑が建立された。