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紀の国の先人たち

 毛利 柴庵(もうり さいあん)

明治5年(1872)~昭和13年(1938)
新宮市生まれ
言論の自由を尊重した反骨のジャーナリスト

明治5年(1872)、現在の新宮市に生まれる。幼名熊二郎、僧名は清雅。幼い頃に父と死別、新宮の遍照院に預けられる。13歳で得度し、高野山中学林(現:高野山高校)で学んだ後に東京へ遊学、在京中は東京日々新聞の社員を務めた。明治24年(1891)高野山大学林(現:高野山大学)で学ぶため帰郷。首席で卒業し、田辺の高山寺住職を拝命する。

明治20年代、伝統仏教教団の一部には、仏教が国から公認を受け、政府の保護を求める動きがあった。これに対して、政府の保護干渉を受けず、信仰の自由と自立を目標として仏教界の革新を目指す新仏教運動が展開されていた。柴庵もこの運動に参加、仏教界の革新を志した。

明治33年(1900)田辺市で「牟婁新報」が創刊され主筆となる。創刊にあたり「吾輩は唯だ此地方の進運を扶助し、あらゆる方面に於て無二の親友たらんとする」と抱負を述べている。柴庵は新仏教運動を通じて社会主義者たちとの交流が深かったため、県内外から大石誠之助や幸徳秋水、堺利彦らが寄稿、管野すが、荒畑寒村らを記者に迎えるなど、牟婁新報は一地方紙にとどまらない存在感を見せた。柴庵は言論の自由を何よりも尊重、あらゆる立場の主張を掲載したため、自由闊達な議論が闘わされていた。明治42年(1909)田辺の大浜台場公園売却に対し反対の論陣を展開。柴庵のこの意見に共鳴した南方熊楠が、牟婁新報紙上に自然保護の観点から神社合祀反対意見を寄稿。柴庵も「強制威圧的な廃合は信教の自由を侵すものであり、勝景の地である神社の森を伐採することは自然保護・環境保護に反する」と合祀反対を敢然と表明し、ともに協力して神社合祀反対、自然保護の運動を推進した。

公園売却反対運動を通じ、運動の達成のために議会での活動が必要と考えた柴庵は、明治43年(1910)田辺町(現:田辺市)の町会議員選挙に、翌年には県会議員選挙に出馬し当選。これをきっかけに活動の舞台を地方政治の世界に移す。県会議員を主に多くの役職を勤め、持ち前の鋭い弁舌と自由な発想、行動力で幅広く活躍した毛利柴庵は、昭和13年(1938)、66歳で亡くなった。

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