現在表示しているページ
ホーム > 紀の国の先人たち > 陸奥 宗光

紀の国の先人たち

政治家 陸奥 宗光(むつ むねみつ)

弘化元年(1844)~明治30年(1897)
和歌山市生まれ
日本外交史に輝かしい功績を残した「カミソリ大臣」

弘化元年(1844)、藩の勘定奉行、寺社奉行を務めた伊達宗広の六子として現在の和歌山市に生まれる。のちに姓を伊達から陸奥に改め、源二郎、陽之助、宗光と名乗った。安政5年(1858)、江戸に出て幕府の学問所に学び、文久3年(1863)、神戸に設けられた海軍塾で勝海舟に師事。そこで知り合った坂本龍馬の亀山社中、海援隊に参加。龍馬をして「独立して自ら其志を行うを得るものは只余と陸奥のみ」と言わしめるほど手腕を発揮したという。

明治維新後は、津田出らとともに和歌山藩の藩政改革を実現させ、兵庫県知事や地租改正局長などを務めたが、薩長藩閥政府のあり方に不満を持ち辞職の後、元老院議官となる。明治11年(1878)、西南戦争に乗じて政府転覆を謀った立志社事件に関与したとされ、禁獄5年の刑に処せられるが、明治16年(1883)赦免により出獄、2年余りの外国留学を経て外務省に入省する。

江戸幕府が諸外国と締結した条約は、種々の不平等な条件を強いられており、これらの改正は、近代国家としての地位を確立するための重要な外交課題であった。明治21年(1888)、駐米公使としてアメリカに赴任した陸奥は、同年11月メキシコとの間に、わが国初の対等条約である日墨修好通商条約を締結。また、明治25年(1892)には第二次伊藤博文内閣の外務大臣に任命され、明治27年(1894)、治外法権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とする日英通商航海条約の締結に成功。これによって各国は英国にならい、次々と日本と改正条約を結ぶことになる。同年、日清戦争が勃発、翌28年に陸奥は伊藤首相とともに、下関で行われる清国との講和会議に出席し、日本にとって有利な条件で戦争を終結させる日清講和条約の調印を成功させた。

日本の近代化に辣腕を振るい、機略に富んだ資質から 「カミソリ大臣」と呼ばれた陸奥宗光は、明治29年(1896)に病気療養のため大臣の職を辞し、その翌年53歳で亡くなった。

(画像転載禁止)


このページのトップに戻る