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紀の国の先人たち

作家 中上 健次(なかがみ けんじ)

1946年(昭和21年)~1992年(平成4年)
新宮市 生まれ
熊野の再生を目指した行動する作家

新宮市生まれ。昭和37年和歌山県新宮高校に入学。同級生の中森則夫と知り合い、文学的影響を受ける。文芸部に入部し、機関誌「車輪」の発行に携わり、小説「赤い儀式」や詩を掲載する。昭和40年、大学進学を目指して上京。予備校に入学するが、ほとんど出席せず、当時、演劇や映画・音楽など文化の中心であった新宿を徘徊する。その後、同人誌「文芸首都」に参加し、さらに大きな影響を受ける。「文芸首都」の同人の中からは、椎名鱗三、津島佑子、大原富枝など、秀れた作家が多く出ており、健次の妻、紀和鏡も同人の一人である。

昭和48年、「19歳の地図」で芥川賞候補になり、昭和51年、「岬」で戦後生まれで初めての芥川賞に輝く。その翌々年には、「枯木灘」で芸術選奨文部大臣賞新人賞を受けるなど、作家としての地位を築き上げる。また問題を広く深く観察するため、ロサンゼルス、ハワイ、ソウル、三重県、那智勝浦町へと転居。小説だけでなくルポルタージュ、評論、脚本、各種イベントなどその活動は多方面に及び、行動する作家として知られるようになる。

昭和62年、健次の高校時代の同級生を中心に「隈ノ会」が結成され、平成2 年、「熊野大学」を開講する。「熊野大学は校舎も入学試験もない。卒業するのは死ぬ時。人に対して無限にやさしい熊野の思想を明らかにし、精神(人の心)に関する最高の学問の場にしたい」という健次の構想に従い、準備講座の段階からほぼ毎月開講する。多忙の中、健次は新宮に戻り、山本健吉の評論「いのちとかたち」をテキストに講義を行う。平成4年、志しなかばにして、46歳という若さで亡くなる。

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