1910年(明治43年)~1997年(平成9年)
那智勝浦町 生まれ
生涯を日本陸上競技界に尽くした友情のメダリスト
那智村(現:那智勝浦町)で生まれ、和歌山市で育つ。和歌山中学(現:桐蔭高校)時代、運動会でいきなり3メートルを越し、それから棒高跳に興味をもつようになる。昭和3年、早稲田第一高等学院(現:早稲田大学)理工学部に入学、陸上競技に熱中する。
当時は早稲田大学陸上部の黄金時代。入学後まもなく、日本記録にあと4センチに迫る好記録を出して優勝。その後、全日本選手権でも優勝するなど、ヨーロッパ遠征メンバーに加えられる。
昭和7年のロサンゼルスオリンピックで銀メダル、昭和11年のベルリンオリンピックでは、大江季雄選手とともに2位となる。公式発表では、年長の修平が2位、大江選手が3位となるが、表彰台では、修平が2位の座を大江選手に譲るというほほえましい場面を見せる。帰国後、互いに上位を譲りあった2人は、メダルを銀と銅の半分ずつをくっつけ、2つのメダルにして分けあう。このことは「友情のメダル」として教科書でも紹介され、有名になる。
第二次世界大戦後は、日本陸上競技連盟の理事長、日本オリンピック委員会委員、第1回アジア大会とメルボルンオリンピック(オーストラリア)監督、第18回東京オリンピックの審判長などを務める。誰にも負けない陸上競技に対する情熱で、数多くの役職に就き、日本、世界の陸上競技やスポーツの振興に尽力する。昭和63年、那智勝浦町から名誉町民の称号が贈られる。