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紀の国の先人たち

篤志家 野田 四郎(のだ しろう)

天保11年(1840)~明治37年(1904)
有田川町生まれ
地域の殖産興業に尽力、郡民に慕われた名郡長

天保11年(1840)、有田郡野田村(現:有田川町)に生まれる。栖原村(現:湯浅町)の書家北圃蓼洲に師事して書を学び、菊池海荘、浜口梧陵に親炙した。若い頃から製茶産業の将来性に注目、京都山城や宇治に赴き茶の栽培や製茶の手法を調査し、郷里にて茶園を拓く。明治2年(1869)、有田郡の殖産元締を命ぜられると、私財を貸与して有田郡内各所に製茶場を設けるとともに、私有財産を抵当として民政・開拓局から2万両の資金を借り入れ、製茶、製紙、養蚕の資金を貸与した。また、城山村二川(現:有田川町)に蚕糸業伝習所を設立、地域産業の開発振興に尽力した。明治12年(1879)、郡役所開設にあたって郡書記に就任。明治14年(1881)には県会議員に当選したが、明治16年(1883)、議員を辞職し有田郡長に就任。卓抜した指導力と実践力をもって郡治に取り組み、その功績は、町村基本財産の設置、道路の改修整備、農会の設置や柑橘販売の改善、植林・畜産・養蚕等の産業振興等、多岐にわたっている。

郡長在職20年に達したとき、四郎の徳と功績に感謝する郡民が記念に金品を贈ろうとしたが、四郎はこれを固辞。これに代わるものとして郡内各地に560ヘクタールもの記念植林が行われた。この美談は官報に登載され広く紹介されることとなり、時の内務大臣山県有朋も「かくの如きは実に町村実施以来の快挙にして、自治の精神の高きこと、自治の模範とするに足るものなり」と高く評価、「野も山も 林となりて 君の名は 花たちばなの 高くかほれ里」という和歌を詠よんでいる。

明治37年(1904)、65歳で病気のため郡長の職を辞し、ほどなくして亡くなった。「我は今日 左木となりて 朽つるとも やがて咲かせん 自治の花実を」という辞世の句を残している。

自ら清廉の範を示し、公共のためには私財を投げ打つこともいとわず、郡民のために尽くした名郡長として慕われた。その死を悼む郡民の痛惜ぶりは、父母を喪うようであったという。

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