現在表示しているページ
ホーム > 紀の国の先人たち > 野村 吉三郎

紀の国の先人たち

政治家 野村 吉三郎(のむら きちさぶろう)

明治10年(1877)~昭和39年(1964)
和歌山市生まれ
対米交渉に尽力した駐米大使、海軍大将

明治10年(1877)、現在の和歌山市の増田家に生まれ、のちに親戚の野村家の養子となる。和歌山中学校(現:桐蔭高校)を経て、明治31年(1898)海軍兵学校を卒業。

明治41年(1908)オーストリア、ドイツに駐在したのち、大正3年(1914)にはアメリカ大使館付武官として駐在。大正8年(1919)のパリ講和会議、大正10年(1921)のワシントン軍縮会議にも随行するなど、海軍随一の国際派としてキャリアを重ねた。

昭和7年(1932)、第三艦隊司令長官として上海事変に出征し事態収拾に尽力。この際テロに遭遇し右目を失明する。昭和8年(1933)には海軍大将に就任した。

昭和12年(1937)予備役に編入し、学習院院長に招かれた。しかし同年、日中戦争が勃発。またヨーロッパでは昭和14年(1939)ドイツがポーランドに侵攻し、英仏両国が対独宣戦布告、第二次世界大戦が勃発した。昭和15年(1940)9月、日本はドイツ、イタリアとの間に三国同盟を締結したことから米英との関係が悪化、同年11月、この動乱期の日米関係改善のため、ルーズベルト大統領とも旧知の間柄で国際派の吉三郎が駐米大使に任じられた。吉三郎は渡米後、ルーズベルト大統領、ハル国務長官との交渉を続けるが、アメリカは対日経済制裁を発動、互いに国益をぶつけあう帝国主義の世界情勢からも戦火の拡大は不可避の状況であった。

昭和16年(1941)11月26日、ハル国務長官から、強硬な内容の提案、通称ハル・ノートが出された。ぎりぎりまで日米関係の打開に死力を尽くしていた吉三郎の願いは叶わず、日本政府はこれを最後通牒とみなし対米開戦を決意。12月8日、日本はハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入。吉三郎は昭和17年(1942)、最後の交換船により無念の帰国をした。

戦後は、松下幸之助の招きにより日本ビクター株式会社の社長を務めた後、昭和29年(1954)からは参議院議員として活躍した。

大正・昭和の混乱期に海軍軍人、外交官として困難な任務に取り組んだ“隻眼提督”野村吉三郎は、昭和39年(1964)、86歳で亡くなった。

(画像転載禁止)


このページのトップに戻る