明治3年(1870)~昭和16年(1941)
田辺市生まれ
広義の地学体系の確立に貢献した地質学者
明治3年(1870)、田辺藩(現:田辺市)の浅井家に生まれる。明治21年(1888)小川家の養子となり、明治26年(1893)東京帝国大学地質学科に入学、同大学院でも地質学を専攻する。地質学を専攻したのは、明治24年(1891)濃尾地震に遭遇し、最も被害の大きかった名古屋の惨状を見たのがきっかけであった。
卒業後の明治30年(1897)農商務省地質調査所に入り、すぐに渡欧してパリ万国博の日本の出品審査官として活躍、そのかたわら地質学者ミシェル・レビュー、岩石学者ラ・クロアに師事して研鑚を重ねた。
明治37年(1904)日露戦争が始まると、大本営付きとなって中国大陸の地質調査に従事し、撫順炭田が無尽蔵ともいうべき炭層であることを発見した。また、その頃誰も考えもしなかった炭坑の露天掘りを提案して、関係者を驚かすという一幕もあったという。
明治41年(1908)、京都帝国大学教授に就任、のち地質、地理両学科の初代主任教授を併任し、地球学団と呼ばれる京都学派を育てた。また、日本列島の地質二重構造説、日本アルプスの低地氷河存在説などを提起し、雑誌『地球』を主宰、自然地理学、地質学、地球物理学などを包括する広義の地学体系の確立に貢献した。
また、琢治は、冶金学者の小川芳樹、歴史学者の貝塚茂樹、ノーベル賞を受賞した物理学者の湯川秀樹、中国文学者の小川環樹の父として有名であるが、自然科学と人文科学の幅広い学問の研究が、知らず知らず子息たちに影響を与えたことをうかがわせている。
刻苦精励の生涯をおくった小川琢治は、昭和16年(1941)71歳で亡くなった。