明治9年(1876)~昭和30年(1955)
橋本市生まれ
融和運動に生涯を捧げた部落解放の先駆者
明治9年(1876)、伊都郡端場村(現:橋本市)に生まれる。尋常小学校卒業後、部落差別が原因で橋本尋常高等小学校への入学を断られる。成績優秀で向学心に燃えていた弥は差別に対し憤りを覚えるが、漢学の師が「一万巻の書籍を読破すると一人前になれる」と諭したことから独学を決意、次々と書物を読みあさった。また、岡本家所有の尾形光琳の屏風を売却、その代金で大阪の古本屋から大量の書籍を購入。これらの書籍は後に「光風文庫」と名付け村人たちに開放、大いに読書熱をあおった。弥は数年間読書にふけり勉学をすすめ、「部落民の向上を図ることこそ喫緊」との考えを持ち、明治26年(1893)村の青年たちを説いて青年進徳会を結成、自覚向上運動に着手。これは和歌山県の部落改善運動の先駆けとなるものであった。
明治35年(1902)弥たちによる差別発言糺弾活動が、被差別部落の全国的結集の契機となり明治36年(1903)大日本同胞融和会を結成。全国的な解放運動組織の先覚的取り組みであった
大正元年(1912)に内務省が開いた細民部落改善協議会に出席した弥は、「部落改善には部落民の自覚が肝要だが、それを阻害しているのは一般民の差別行為である」とし、政府に対し善処を求める「部落改善に関する私案」を提出、その深い見識から政府の改善事業促進への働きかけを行っている。
また、若い頃から地元端場村の村長を長く務め、大正5年(1916)には、当時増加していたトラホームを撲滅するため村営の無料診療所を開設、地域の衛生改善に取り組んだ。
大正13年(1924)「和歌山県同和会」が設立され、副会長に就任。また、翌大正14年(1925)に創立された全国融和連盟の常任委員をつとめた。
差別問題に対して深い見識を持ち、融和主義の立場から部落解放への努力を続けてきた岡本弥は、昭和30年(1955)、78歳で亡くなった。