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紀の国の先人たち

裁判官 奥野 健一(おくの けんいち)

明治31年(1898)~昭和59年(1984)
田辺市生まれ
「疑わしきは罰せず」の最高裁判事

明治31年(1898)、田辺町(現:田辺市)に生まれる。田辺中学校(現:田辺高校)を卒業し、岡山の第六高等学校(現:岡山大学)に進学。剣道に熱中した在学中、六高生と地元の青年が乱闘騒ぎを起こした際、誤った目撃証言によって健一が乱闘の首謀者として逮捕されるという事件が起きた。いくら釈明しても聞き入れられず、とうとう仲間をかばう義侠心から偽りの自白をしてしまった。幸い検事の調べで無実が明らかになったが、この体験は誘導尋問によって人間はいかに偽りの自白をしやすいものか、後年裁判官になった時の大きな教訓になったという。

大正12年(1923)東京帝国大学(現:東京大学)を卒業し、司法省(現:法務省)に入省。東京民事地方裁判所の部長判事、仙台地方裁判所長、大審院判事などを歴任する。昭和20年(1945)、終戦の日に司法省民事局長に任じられ、戦後の大変革期に司法改革を担当。基本的人権の尊重をめざした改正民法の成立に尽力した。

昭和23年(1948)初代の参議院法制局長となり、昭和31年(1956)には最高裁判所の判事に就任。以後12年間、世間の注目を集める幾多の難事件の裁判に携わる。これらの判例は今日の法曹界においても非常に重要な扱いを受けているものが多い。中でも、冤罪性をめぐり混迷を極めた八海事件※において、「疑わしきは罰せず」の原則に基づき、昭和43年(1968)、5人中4人の被告に無罪判決を言い渡し、判決を確定させた事件は代表的なものである。

憲法上の論点に関する判決においては少数意見、補足意見を数多く述べるなど、司法の最高府での真剣公正な合議を導いた最高裁判事、奥野健一は昭和59年(1984)、85歳で亡くなった。

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