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紀の国の先人たち

漁業先覚者 大出 弥右衛門(おおで やえもん)

安政2年(1855)~昭和5年(1930)
日高町生まれ
日本のキンチャク網漁法の先駆者

安政2年(1855)、日高郡阿尾浦(現:日高町)に生まれる。生家は幕末から明治期にかけて海産物商として栄えた土地の素封家であった。同村は耕地に乏しく、主産業であった漁業も昔ながらの地引き網と一本釣りであったため、天候の影響で出漁できないことも多く、村民の生活は困窮していた。

明治21年(1888)に、隣の三尾村(現:美浜町)出身の工野儀兵衛がカナダに渡り、その呼びかけで移民した漁民達たちが鮭漁で活躍していることを知った弥右衛門は、阿尾の漁民にも移民を奨励、明治30年(1897)から5年ほどの間に100人余りが移民することとなる。経済的困窮という事情もあったが、黒潮に乗って広域的に活動してきた紀州漁民の持つ進取の気性が移民への原動力となった。弥右衛門自身もカナダに渡り、鮭と鰊の塩漬け加工業を起業。これら加工品はアジアに輸出され、多い年では6万5千トンにも及び大いに栄え、移民たちの郷里への送金は、村の経済を潤すこととなった。

明治35年(1902)、加工業と販路が軌道に乗ったことを見届けた弥右衛門は、長男の竹次郎に工場の経営を任せ、明治39年(1906)に帰国。帰国後、カナダで学んだキンチャク網船を仕立て朝鮮半島へ出漁、漁獲は好成績を収めた。日本におけるキンチャク網漁法の先駆けと言われている。弥右衛門のこの取り組みが素地となり、後に阿尾地区では本格的にキンチャク網漁が導入され、就業率の向上と生活の安定をもたらすこととなった。

漁業に従事する傍ら、明治44年(1911)には比井崎村(現:日高町)の村長となる。人望があり、村の事件の調停者して重きをなした。また、不況に苦しむ村民達のための失業対策として、これまで耕作不能であった阿尾地区内の沼地を埋めたて、新たな水田に開拓。この田は、弥右衛門に感謝する村民から「お救い田」と呼ばれたという。

昭和5年(1930)、74歳で亡くなった。昭和8年(1933)には、弥右衛門を慕う村民らにより、その業績を称える頌徳碑が建立された。

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