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紀の国の先人たち

篤志家 大石 誠之助(おおいし せいのすけ)

1867年(慶応3年)~1911年(明治44年)
新宮市 生まれ
「ドクトルおほいし」と大逆事件

慶応3年(1867)、新宮(現:新宮市)で生まれる。同志社英学校、東京の神田共立学校で英語を学ぶ。明治23年(1890)渡米、アメリカ、カナダの大学で医学を学び、医院を開業するが、明治28年(1895)帰国する。
翌年、新宮町仲ノ町(現:新宮市仲之町)で「ドクトルおほいし」の看板をかけ開業する。和貝彦太郎によれば、「アメリカ帰りの新しい医術が光っている上に、患者には至って優しく、貧しい人々に対しても極めて気安く診察する上、診察料も薬代も積極的には請求しないと云うので、庶民の間では一種の信仰的存在であった」と言う。       

明治32年(1899)、伝染病学研究のためインド・ボンベイ大学に留学する。このインドで見聞したカースト制度が、誠之助に人権について深く考えさせるきっかけとなり、社会主義へ近づかせることになった。
明治34年(1901)、病気のため帰郷し、新宮町船町(現:新宮市船町)で再び開業。この頃から、地方新聞に文芸作品及び社会主義的評論を投稿するようになる。また、堺利彦、幸徳秋水らと交流、資金援助を行う。明治43年(1910)、大逆事件が発覚。共同謀議の罪で誠之助も起訴され、明治44年(1911)処刑された。43歳であった。

戦後、多くの研究者により大逆事件の解明がすすみ、宮下太吉・菅野すが・新村忠雄・古河力作以外は事件とは無関係で、大石誠之助らは冤罪事件の犠牲になったといわれている。新宮では「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」が結成され、非戦・廃娼を唱えた人権の先駆者として新宮市議会で誠之助らの名誉回復宣言が採択されるなど活発な活動が行われている。

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