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紀の国の先人たち

人権運動家 西光 万吉(さいこう まんきち)

明治28年(1895)~昭和45年(1970)
紀の川市在住
全国水平社宣言を起草「人の世に熱あれ 人間に光あれ」

明治28年(1895)、奈良県南葛城郡掖上村(現:御所市)の浄土真宗西光寺に生まれる。本名は清原一隆。奈良県立畝傍中学校(現:奈良県立畝傍高校)、京都の平安中学校(現:平安高校)に学んだが、差別を受けたことが原因で両校を退学。上京して画家を志すが、被差別部落出身であることが知られるのを恐れて画塾を辞めるなど、青年期の万吉には差別が暗い影を落としていた。

大正9年(1920)、幼なじみの阪本清一郎や駒井喜作らとともに「燕会」を結成、消費組合活動や社会問題研究に取り組む。大正10年(1921)雑誌『解放』に掲載された佐野学の論文『特殊部落解放論』に感銘を受け、部落の改善、解放に取り組む被差別部落大衆自身の自主的運動の必要性を強く意識し、燕会のメンバーらと水平社創立事務所を設け、創立趣意書を全国に発信。大正11年(1922)、万吉らが中心となり全国水平社が創立された。万吉は水平社の団体旗『荊冠旗』をデザインし、創立宣言を起草。「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」と結ばれた有名なこの宣言は、人間を尊敬することにより、人の世に光明をもたらそうとする願いがこめられている。

水平社の活動は瞬く間に全国に広がり、和歌山県でも大正12年(1923)5月、和歌山県水平社が創立された。和歌山市公会堂で行われた創立大会には2000人の参加者が集まり、万吉も熱弁を奮っている。

昭和16年(1941)に、妻の郷里である那賀郡田中村(現:紀の川市)に移住。戦後は、人類の平和共存を求める「和栄政策」の思想を掲げ、平和運動に生涯を捧げた。

人間の尊厳を訴えた西光万吉は、昭和45年(1970)、74歳で亡くなった。紀の川市の住居跡には、「不戦和栄の碑」が建てられている。

(画像転載禁止)


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