1901年(明治34年)~1958年(昭和33年)
桃山町 生まれ
紀州の方言を巧みに活かした改造賞受賞劇作家
紀の川中流沿いの農村・安楽川村(現桃山町)の農家に生まれる。阪中正夫は最初は詩人として才能を発揮する。大正11年、22歳で処女詩集「生まるる映像」を発表して注目される。大正13年、24歳で第二詩集「六月は羽ばたく」を出版する。彼の詩には土の香りが漂い、懐かしい農村の叙情がちりばめられている。この頃熱い交流を続けていた同郷の画家・保田龍門の紹介で生涯の師となる劇作家・岸田国士に出会い、岸田に心酔した阪中は劇作家に転向する。そして彼の詩の才能が戯曲の中で生かされることになる。
昭和7年に発表された戯曲「馬ファース」は、当時最も権威のあった改造社の賞(今の芥川賞に匹敵)を受け、一躍脚光を浴びる。特徴は全編が紀州弁で綴られていること、そしてその方言が詩のように美しく響くことである。声を出して読めば、詩心をもって表現される台詞の美しさを実感できる。「馬ファース」に続く「田舎道」や「赤鬼」など彼の多くの珠玉の作品は紀州弁で書かれている。紀州弁が日本文学史上初めて活字になり、権威ある雑誌や戯曲全集に記載され、また各地の劇場で上演され、ラジオで繰り返し放送されたのは、まさに画期的なことであった。
第二次世界大戦のために郷里に帰り途絶えていた彼の文筆活動は、戦後再開される。大阪に出た阪中は主としてラジオドラマを執筆する。NHKをはじめ戦後間もなく開局した民放各社のラジオより、彼のドラマが数多く放送された。またこの頃、関西在住の演劇人、放送作家が彼を囲み、この中から多くの人が世に出ている。昭和31年、和歌山市民会館で「馬」(毛利菊枝主演)が上演され、阪中は舞台より挨拶し、和歌山に阪中ありと印象づける。昭和33年、57歳で伊都郡かつらぎ町の妻の実家にて亡くなる。この年、阪中正夫追悼公演で「馬」が上演。当時の大阪府が指定する演目に選ばれ、多くの観衆を集めた。
平成14年、「上方古典芸能文化顕彰」を受ける。