明治25年(1892年)~昭和39年(1964年)
新宮市生まれ
ふるさとをこよなく愛した望郷の詩人
佐藤家は代々医者を業としていたために、両親は春夫が医者になって家業をつぐことを強く望む。ところが春夫は詩や短歌を愛読し、文学者になりたいと考えていた。
明治42年(1909)、中学5年の夏、歌人として有名な与謝野寛、洋画家の石井柏亭、評論家生田長江らを招いた文芸講演会で、講師が来るまでの20分間、「偽らざる告白」と題して講演をする。
しかし、当時は「詩を作るより田を作れ」「額に汗して働け」という時代。文学や詩歌について「偽らざる告白」を行った春夫の講演は、教育界で問題とされ中学を無期停学となる。翌年、中学校を卒業し、永井荷風を慕って慶應義塾大学予科文学部に入学するも、大正2年(1913)に退学。
明治44年(1911)、天皇の暗殺を計画したとされる大逆事件の判決で、父の友人であり、春夫とも知り合いであった大石誠之助が処刑される。彼の死に大きなショックを受け、大石を弔う詩「愚者の死」を発表。この詩は、すべて反語的な表現だったが、国や裁判の不正に対して憤りを感じていた人々から共鳴を受け、佐藤春夫の名は多くの人に知られるようになる。
大正7年(1918)谷崎潤一郎の推薦により「李太白」で文壇にデビュー。その後「田園の憂鬱」、「殉情詩集」など、次々に秀れた作品を発表。また、故郷紀南の地をこよなく愛し、「秋刀魚の詩」や「望郷五月歌」など多くの詩を残す。昭和35年(1960)、文化勲章を受章、翌年、最初の新宮市名誉市民に推される。昭和39年(1964)「1週間自叙伝」を自宅で録音中、「私は幸いにして…」という言葉を最後に、心筋梗塞のため亡くなる。