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紀の国の先人たち

教育者 関本 諦承(せきもと たいじょう)

万延元年(1860)~昭和13年(1938)
みなべ町生まれ
修徳高等女学校を創立した総本山光明寺第69世法主

万延元年(1860)、熊岡村(現:みなべ町)に生まれる。幼名を音吉といった。幼少より聡明頴哲であり、明治6年(1872)当地方に十四か寺の末寺をもつ超世寺三輪諦順に剃髪を受けた。

明治10年(1877)梶取総持寺の冏学上人に法脈を受け、明治12年京都本山光明寺の宗学本校(現:西山短期大学)に、同17年(1884)哲学館(現:東洋大学)で仏教や哲学を学び、25歳で超世寺住職となった。

明治39年(1906)47歳で西山派の執事長に、明治41年(1908)には和歌山の梶取総持寺の貫主となる。そして、10年後の大正7年(1918)59歳の若さで総本山光明寺第69世法主に満票で選ばれた。

法主在任16か年という永い期間宗門の人々から絶対的な信頼を得るなか、仏教の根本精神を「慈悲心」ととらえそれを養うためには、女子の教育が極めて大切であると考え、大正12年(1923)和歌山市に修徳高等女学校(現:開智中学校・開智高等学校)を、昭和2年(1927)には京都府向日市に西山高等女学校(現:西山高等学校)を創建。また、地域の要請を受け同年に南部町立紀南実修女学校(現:南部高等学校)設立のための発起人となり創立に尽力する。

諦承は、常に勉学に励み、十数冊の仏教関係の書物の刊行、本山発行の宗教雑誌等で毎回のように信仰の大切さを説いている。昭和8年(1933)惜しまれながら法主・管長を退任、田辺市に願成寺を建立し隠棲。西山聖典の編さんに没頭したが、昭和13年(1938)79歳で遷化した。

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