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紀の国の先人たち

電気工学者 瀬藤 象二(せとう しょうじ)

明治24年(1891)~昭和52年(1977)
有田川町生まれ
心血を注いだ研究と後進の指導に努めた電気工学者

明治24年(1891)、鳥屋城村(現:有田川町)に生まれる。

父と兄のすすめで浜口梧陵が創設した耐久学舎で学び、第一高等学校を経て、明治45年(1912)東京帝国大学工学部に入学した。よき指導者、よき同輩に恵まれた象二の向学心は高く、勉強はめしより好きな男との代名詞が付けられたほどであったという。

大正4年(1915)、鳳秀太郎教授の強い薦めもあり母校に残る。その後、東京帝国大学教授をはじめ、財団法人理化学研究所主任研究員、東京芝浦電気株式会社専務取締役、日本原子力事業株式会社会長など多くの要職を歴任、その功績は幅広きにわたっている。

まず、光学顕微鏡の300万倍の世界を映す電子顕微鏡の研究では、国産化実現のため設計と技術開発の指導に専念、諸外国の追随を許さない日本電子顕微鏡技術の基礎を作った。また、昭和3年(1928)理化学研究所で完成したアルマイトは、並み居る学者を驚かし世界の人々の生活を一変させ、象二の名を不朽のものとした。さらに、原子力の平和利用と原子力産業の育成にあたっては、「人命への影響極めて大きいことから、少しのミスも許されるものではない。今こそ政・財・教が一体となった組織体制づくりと研究者や技術者の養成なくして実現し得ない。」ことを力説している。

自らの栄達を図ることを嫌い、国内外を問わずすべての人の幸せのため進歩と発展に貢献することを最大の努めとの信念を堅く持ち、将来をしっかりと見据えた研究と後進の指導に心血を注いだ瀬藤象二は、昭和52年(1977)86歳をもってこの世を去った。

昭和48年(1973)に受章した文化勲章は、ひとりのものとせず、生まれ育った故郷に感謝の意を表し、母校の耐久高校で保管されている。

(画像転載禁止)


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