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紀の国の先人たち

医学者 島薗 順次郎(しまぞの じゅんじろう)

明治10年(1877)~昭和12年(1937)
和歌山市生まれ
周到緻密な研究で脚気の原因をつきとめた医学者

明治10年(1877)、現在の和歌山市に生まれる。和歌山中学校在学中に才能をみこまれて島薗家の養子となり、第一高等学校を経て、明治32年(1899)に東京帝国大学の医科に進んだ。大学では、「牟婁病」の発見者で知られる三浦謹之助教授の指導を受け、明治37年(1904)に卒業した。その後ドイツに留学し、帰国してから岡山医学専門学校教授や京都帝国大学教授を勤め、大正13年(1924)には三浦教授が退官したあと、数多くの先輩を抜いて東京帝国大学教授となった。そして昭和4年(1929)、最初の交換教授としてドイツのベルリン大学で1年間講義を行うなど、確立しつつあった日本医学の水準を高める上で大きな役割を果たした。

研究分野は、主として神経系統病であったが、脚気の原因をつきとめる研究にも熱心に取り組んだ。脚気は白米食が増えた明治維新前後から多くなり、当時の軍隊、とりわけ陸軍にとっては重大な問題となっていた。軍隊に限らず毎年2万人もの人が死んだことから、国民病といわれるようになったが、病原菌説や中毒説などが有力で適切な治療が行われなかった。

白米食に原因があるという説は漢方医らにもあったのだが、西洋医学がそれを科学的に確認するには長い時間がかかった。こうした中、順次郎は鈴木梅太郎が明治43年(1910)に発見していたオリザニン(ビタミンB1)を用いて厳密な研究を進め、昭和9年(1934)、脚気はビタミンB1の欠乏によるものと結論づけてその学説を発表した。この論文は、脚気の原因をめぐる論争を終結させ、脚気で悩む患者の治療方針を確定することとなった。やがて脚気はほぼ完全に克服されることになるが、島薗順次郎はそれに先立ち、昭和12年(1937)、60歳でその輝かしい生涯を閉じた。

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