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紀の国の先人たち

ジャーナリスト 下村 海南(しもむら かいなん)

明治8年(1875)~昭和32年(1957)
和歌山市生まれ
多彩な分野で活躍した官僚、ジャーナリスト

明治8年(1875)、現在の和歌山市に生まれる。本名は宏。和歌山中学校(現:桐蔭高校)を経て、明治31年(1898)、東京帝国大学(現:東京大学)を卒業、逓信省(現:総務省)に入省する。明治35年(1902)欧州に留学し各国の郵便為替貯金制度を研究、帰国後は為替貯金局長として振替貯金制度や簡易生命保険事業の改革に取り組んだ。

大正4年(1915)に台湾総督府民政長官、同8年(1919)には総務長官に就任。台湾教育会の設立や地方自治制度の創始に尽力、また在任中に取り組んだ港湾整備、水力発電の設置、灌漑工事などの事業は、台湾発展の基礎となった。

大正10年(1921)朝日新聞社に入社、経営の近代化に大きな役割を果たし、昭和5年(1930)には副社長を務めた。昭和18年(1943)には日本放送協会(NHK)会長に就任した。

昭和20年(1945)4月、鈴木貫太郎内閣の国務大臣となり、情報局総裁に就任。終戦時のポツダム宣言受諾の玉音放送の実現に尽力した。同年8月15日正午に開始された放送は、日本放送協会の和田信賢放送員によるアナウンスから始まり、続いて下村が昭和天皇自らの勅語朗読である事を説明してから、天皇の声を録音したレコードが放送された。前日には、徹底抗戦を主張する一部軍人により、放送を妨害しようとして下村たちが監禁される事件が起きるなど、緊張した情勢が続く中、天皇から直接終戦を伝える玉音放送が無事に行われたことの意義は大きかった。

佐々木信綱門下の歌人としても知られ、戦後は拓殖大学の総長も務めた。官界、報道界など多彩な分野で能力を発揮した下村海南は、昭和32年(1957)に82歳で亡くなった。潮岬には下村の胸像と歌碑が建立されている。

(画像転載禁止)


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