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紀の国の先人たち

ジャーナリスト 杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん)

明治5年(1872)~昭和20年(1945)
和歌山市生まれ
新聞の発展に大きな足跡を残したジャーナリスト

明治5年(1872)、現在の和歌山市に生まれる。本名は広太郎。和歌山中学校(現:桐蔭高校)を中退、上京して英吉利法律学校(現:中央大学)、国民英学会に学ぶが、病気のため帰郷。地元の和歌山新報の主筆として健筆をふるう。

明治27年(1894)同郷の古川老川らと「経緯会」を設立。明治32年には高島米峰らと「仏教清徒同志会」を結成し、雑誌『新仏教』を創刊するなど、仏教界の革新を志す新仏教運動を展開した。

明治32年(1899)米国公使館の通訳となり、この頃から楚人冠と号するようになった。当時の公使館の職員はシルクハットを常用していたが、シルクハットを入れた箱をみなよく間違えるので、目印のため、「自分のような野人がシルクハットをかぶっているのは滑稽だ」という意味で、史記の故事※にちなみ、“楚人冠”と記したことに由来している。

明治36年(1903)、東京朝日新聞に入社。明治40年(1907)、伏見宮貞愛親王の渡英に随行した際の滞欧日記「随輿記」を連載。この記事が軽妙で独特の批判と皮肉を加えながらも機知に富んだユニークなものだったことから、「新聞記者の目と文人の手を持った作品」と評価され、楚人冠の名が世に知られるようになった。

明治42年(1909)には、南方熊楠が訴えた神社合祀反対運動を中央紙として初めて取り上げ、熊楠の活動が広く知られる契機を作り出している。

海外での知見を生かし、我が国初の調査部設置、縮刷版の発行、アサヒグラフの創刊などの新しい取り組みを進め、『最近新聞紙学』『新聞の話』『新聞紙の内外』など、新聞に関する著作を数多く発表、日本のジャーナリズムの発展に先鞭をつけた。昭和12年(1937)には、多数の随筆などを収録した『楚人冠全集』が刊行された。

新聞の発展向上に大きな足跡を残したジャーナリスト杉村楚人冠は、昭和20年(1945)、73歳で亡くなった。

(画像転載禁止)


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