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紀の国の先人たち

政治家 田渕 豊吉(たぶち とよきち)

明治15年(1882)~昭和18年(1943)
御坊市生まれ
多くの名演説を残した哲人政治家

明治15年(1882)、日高郡薗浦(現:御坊市)に生まれる。明治38年(1905)早稲田大学に入学。政治への関心が高かった豊吉は雄弁会に所属、在学中に東京都戸塚村の村会議員選挙に出馬し、最高点で当選、学生村議として話題になった。卒業後、ドイツやイギリスなど欧米各地で政治経済学や哲学などを学び、大正4年(1915)に帰国する。

大正6年(1917)の第13回総選挙に和歌山県郡部から出馬するが次点で落選。3年後、小選挙区制で実施された第14回総選挙に和歌山4区(日高郡、西牟婁郡、東牟婁郡)から出馬、38歳の若さで1位当選を果たす。以来、いずれの政党にも属さず、純粋な議会人として自らの言論を武器に鋭い論陣を張った。

昭和15年(1940)大政翼賛会が発足したが、あくまで無所属を貫いた。昭和16年(1941)に東条英機内閣が発足。戦争に反対していた豊吉は、翼賛議会において東条の演説に野次を飛ばし、退場となっている。言論の封殺された非常体制下においても、議会における言論の自由の確立のために奮闘。不規則発言等により懲罰をうけること4回、議長による退場命令はその数知れずであった。

昭和17年(1942)候補者推薦制度を導入した翼賛選挙において、中立の議会人を貫き、非推薦候補者として出馬するが落選、20年にわたる政治生活の幕を閉じた。言論人として国会演説にすべてを託し、多くの名演説を残したが、中でも、平塚らいてうら新婦人協会の運動による女性の政治参加への道を開くべく行った「治安警察法第5条改正案提出理由説明」、尾崎行雄が「我が国議会演説史にちりばめられた不滅の宝石」と絶賛する「関東大震災時の朝鮮人大量虐殺事件追及」、事件の真相に鋭く迫った「張作霖爆殺事件暴露演説」は、その歴史的意義から彼の三大演説と言われている。

深い学識を秘めた名演説と痛烈な野次で、「田渕仙人」と親しまれた田渕豊吉は、昭和18年(1943)、60歳で亡くなった。

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